坂東蛍子、屋上にて仇敵を待つ/神西亜樹

https://www.shinchosha.co.jp/book/180026/

読了日2019/10/17
坂東蛍子は桐ヶ谷茉莉花が嫌いだった。

なぜ嫌いなのか。
坂東蛍子は屋上にて考える。
校舎ではテロリストによる占拠事件が勃発していたのだが、青春をひた走る少女にとってはそんなささいなことは関係ない。
自らの苦悩に比べたら、とても小さなことだ。
その苦悩がやがて、
「自分が彼女を嫌っている理由は、彼女に自分の嫌いな部分を投影しているからではないか。ということは、私は自分を嫌っているのではないか?」
という思春期どころか女性特有(男性に感情移入の出来ない女でのごめんな)の葛藤へと膨れ上がったら、全国レベルでの一大事などほんの些末なことなのだ。

世の中には強い人間と弱い人間がいる。
私は後者だ。
自ら宣言する。
圧倒的に後者だ。

ネットの海に浸ると、見たくもない文面や思想に触れる機会が頻繁にある。
自ら腐敗物に触れて手が汚れた最悪とわめきたくもないので、私はなるべく見ないように心がけている。
反面、世の中には自分と違う人間が無数に存在するのだという確認のためにも見なくてはならない(気分の問題)ときがある。
この世には自分と同じ考えの人間などおらず、別人同士がたまたま向けているベクトルが同じという理由だけで組んだ枠組みの中で生きる社会というのを、再認識しなければならない(気分の問題)ときがある。

ようは「こいつ小説の登場人物にしたらおもしろいかな」という連中を探しに出かけている(ネットの海へ)。

すると言葉だけの世界には、驚くほど「強い人間」が多い。
と感じることが多い。
実際問題強いかどうか、そもそも強さとは弱さとは何かという疑問はさておくとしても、強い人間が多い。

たまたま見かけた言説である(危うい記憶力なので原文の欠片もない、エッセンスだけ)。
「ネット媒体で有名になろうとしたら、才能よりもその界隈にどれだけ長くいたかの方が重要。ネットは新参者には意外と優しくない」

たしかに、とは思う。
特に時間をかけなければならない小説や長編マンガなどは、ネット世界では圧倒的に不利だ。
とても失礼な物言いになってしまうので事前に申し訳ありませんごめんなさいと謝るが、いかに時間と労力をかけたものであろうと、一目で凄さのわかるイラストや創作物は有利だ。
だって一目で「スゴい」とわかるからだ。
その点やはり、まあ自分がその界隈の末端の志望者程度の存在であるとはいえ、やはり小説は新参者にはとても不利だと思う。
なんせ閲覧数という積み重ねを考えれば、どう考えても古参の方が有利なのだ。
たとえ閲覧数が1日一人だとしても、昨日始めた人間と100日前に始めた人間とでは、閲覧数だけなら後者の方が多い。

とまあ、これは数の問題の話。
実際のところ才能とかいろいろかかわってくるわけだが。
どんなに才能があっても、新参者のうちは少ない閲覧数に耐え忍び涙を流し、それでも日の目が見られる日を待ち望み今日も更新している(がんばれ)。

重要な問題はそこじゃない。
その意見に対してのお言葉。
「それが本当に好きなら、他人の意見や閲覧数など気にしないでいいんじゃないでしょうか」

この手の意見は反吐が出過ぎるしなんなら胃をひねってもいいから出して見せびらかしてやりたいくらい、吐き気がする。
好きでやっていても、人間なにかしらは報われたいと願うわ。
願うことは、それとも悪なのか。
人間みんながみんな聖人君子でもないしキリストでもないし釈迦でも仏陀でも神でもねえんだわ。

と、考えつつ、ああこういう人が「強い人間」なんだなと無理やり腑に落とす。

腑に落としてやる。

ネットの海で見かける「強い人間」とは多分、「強いを演じなければならない人間」なんだろうから、
はいはいあなたは強い人なんですね、と理解を示しつつ近づかない努力をしないといけない。

私のような「弱い人間」は、そういう人間に近づかないのがいちばんだ。

だから本当は、ネットの海といえど、そういう連中のそういう意見には耳を貸したくない。
貸さなければいいのにね。
ネットなんだから、その文字を読むためには私たちは目を使わないといけない。
でも見たくない意見には、文字通り目をふさぐことができる。
目を閉じられる。
でもそれをやらない自分って、本当に、弱い人間だと思う。
どんなものが脅威になるかわからないから、とにかく周囲すべてに神経を張り巡らせて、警戒し続けないといけない。

その点、坂東蛍子は一見すれば、真実「強い人間」なのだ。
文武両道自由爛漫、才能あふれた闊達美少女。
文句のつけようがないし、文句をつけいる隙も他人に与えない。

それなのに蛍子は、不安になる。

桐ヶ谷茉莉花を嫌いな私は、実は自分を桐ヶ谷茉莉花に重ね合わせて嫌っているのではないか?

真実「強い人間」であるはずの蛍子の苦悩である。

桐ヶ谷茉莉花の嫌いな部分を探す。
桐ヶ谷茉莉花は自分(坂東蛍子)と同じ高さにいる。
蛍子は自分がいちばん高いところにいないと気がすまないのに。
さらに蛍子はあろうことか、茉莉花との差違を探した結果、その違いに関しては茉莉花の方が高いところにいると発見する。

蛍子は他人から良く見られたい願望が作り出した虚像で周りから愛されているのに、
茉莉花は素のままの茉莉花で周りから愛されている。

そのことが、蛍子には強いショックだった。

だが蛍子は茉莉花と拳を交える中で気づく(校舎はテロリストに占拠され、お化け屋敷となっているにもかかわらず、屋上で殴り合いの最中に、だ)。

自己を投影していた茉莉花が放つ蛍子への「天才」の一言に、蛍子は違和感を持った。

なぜなら蛍子は天才ではないからだ。
蛍子はたしかにやればなんでも出来たが、それはなんでも出来るように陰でつねに努力を怠らなかったからだ。
そんな隠れた努力をする自分を、蛍子は好きだとはっきり自覚した。
天才に見える蛍子を好きだという友だちもいてくれる。
天才ではない蛍子を好きだという友だちもいてくれる。
幼なじみのころから好きだという友だちもいてくれる。

蛍子は気づく。
自分の好きなところと嫌いなところは背中合わせだったし、どちらも好きでいてくれる友だちがいる。
自分の中には、自分の好きと嫌いが同居していた。

蛍子は気づく。
「私は自分が好きだ」

坂東蛍子は強い。
たとえ文武両道でなくても天真爛漫でなくても、美少女でなくても、強い。

なぜなら蛍子は胸を張って、自分のすべてを好きだといえる少女だからだ。

「強いを演じなければならない人間」は、実際のところ自分のことなんて好きでもなんでもないのだろう。
好きになるためにそうした一面を演じなければならない苦悩も、まあ、理解しよう(寛大な心で。私は持ってないけど)。

でも、蛍子も自分を大きく見せていた自分ごとすべてを好きだと認識して強くなった。
本当は私たちは、そう強くならないといけないのだ。

それが難しいんだけどね。

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