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30代、出逢い直しの旅。

先日、SNSでとある募集が目に止まった。「文章で生きるゼミ」という企画名で、約4ヶ月間、週に1回のペースで座学と実践を交えながら”文章で生きていくこと”を目的としたプログラム。主催している「日本仕事百貨」は、私自身も学生の頃や転職を考えていた時に何度も開いたメディアであり、実は学生の頃にインターンの面接を受けて、当時の自分には鋭く図星すぎる優しいアドバイスを受けて即落ちした苦い経験まであるほどには、ファンだ。

日本仕事百貨の記事を書いてる編集者・ライターの中には、ほんの二、三人知り合いもいて、いつか自分も彼・彼女らのような仕事がしたいという目標であり憧れでもある。

案内のページを開いてみると、現地(東京)で講義を受ける「通学型」の他に「オンライン型」もあり、遠方でも参加できると書いてある。これは運命、受けるしかないだろうと、勢いで参加申込を送ったのは2週間前。
すぐに先払いである受講料の支払い案内のメールが届いたのであるが、振り込まずに今日までの2週間を過ごしたのは、私の中にしぶとく居座る「見栄」と、共存する「自信の無さ」のせいだ。

かりにも私は、書いてきたという”見栄”

フリーライターとしての道を歩み始めたのはほんの数ヶ月であるけれど、これまでにも私は「書くこと」を続けてきた。雑誌のコラム連載や、webメディアでの取材記事の執筆。こうやってnoteやSNSに書くことも。それで今更何を教わるのだろうか、という虚勢が私の中にしぶとくあったことを、今回受講料を振り込むまでの2週間の間に、思いしり、恥じた。
実際には、書く仕事で悔しく恥ずかしい思いをしたばかりであると言うのに。書くことの前に、聞くことさえもままならないことを、自分の現地点が理想からはまだ遠くかけ離れていることを、見に染みて感じたばかりであるというのに。穴があったら入りたい、穴がなかったら掘りたい私に掘らせてください。

恥ずかしい思いというものは進んでしたいものでは無いけれど、それでも恥を恥と受け入れることによって「それであんたはどうしたいねん」と問うステップには進む。これ以上恥ずかしい思いをしたくなければここで辞めることもできるし、この恥を糧にして次に踏み出すことだって、できる。

31歳で、今まだここでしかないという”自信の無さ”

やりたいことは何歳からだって、始めることができる。そういう前向きな考えには大賛成だし、自分も何歳からだってやりたいことを始められる自分でありたい。だけど、テレビやSNSで見る同年代の活躍を目にしては、比較して「自分はまだここ」と落胆してしまう。先を行く先輩の中には、全くの畑違いから「文章で生きていく」道に進んだ人もいるし、私よりずっと上の歳になってから、書くことを始めた人もいる。

わかってはいるけれど、今から学んで、失敗して、間に合うのだろうかという不安が拭えない(茨の道を進んできた先輩方にぶっ飛ばされそう、ごめんなさい)。

それだって結局は、見栄を張っているに過ぎない。本当にやりたかったら、間に合うとか間に合わないとかではなく、やればいいだけなのに。わかってるのにやらないのは、自分の思いは所詮それほどということか。(ぐさり)

これは、「書くこと」との出会い直し

そろそろ振り込み期限も迫ってきた。期限を過ぎれば、申込は自動キャンセルとなる。本当に受講するのか決めきれぬまま、もう一度開いた「文章で生きるゼミ」の案内、一度は一通り目を通したはずのその文章、冒頭の部分で目が止まった。

このゼミは名前のとおり、「文章で生きていくこと」を目的にしたゼミです。

ライターとして生きていくことも含まれますし、より広い意味で「文章で生きていく」ことも入ります。誰もが発信できる時代、文章を書くスキルはより広く求められるようになりました。

卒業生には「文書で生きている」人たちが増えています。それは「答え」を提供するのではなく、「考え方」「過程」を大切にしているからだと感じます。

「文章で生きるゼミ」の案内文より

ゼミの名は

「文章で生きる」ゼミ。

勝手な思い込みで、書くスキルをアップさせるためのゼミなんだとまたもや勘違いしていたが、そんなのどこにも書いていない。このゼミで学べることは「ライターとして生きていく」だけに限らず、「文章で生きていく」ことだ。それならば、文章で生きていくとは、なんだろう。

狭義には、文章で(稼いで)生きていく、ということでもあるかもしれない。でも、生きていくということは必ずしも稼ぐことだけには止まらない。

私はただ漠然と「ライターとして生きていく」ことに見栄を張り、自信を失くしていたけれど、そもそも私にとっての”文章で生きていく”とはなんだろう。

そう思い始めたら、このゼミに参加することは、私にとって”書くことと”との”出会い直し”なのだというように思えてきた。そして、その出会い直しの機会は、今こそ私に必要だった。

出会い直すという感覚を携えて

今までの自分が足りなかったから、埋めるのでもない。
逆に今の自分が十分足りているから、無駄になるのでもない。

私は、これまでも一緒に生きてきた「書くこと」と、また出会い直す。それは、12年ぶりに帰ってきた九州で、故郷と出会い直すことを通じても感じ始めている。

どうやら30代は、いろいろな物事と、出会い直す旅路になりそうだ。

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