山田錦の身代金 第一章「三億円の田んぼ」第二節 その一
田んぼは、初めてだった。
米を追う仕事を、しているのにもかかわらず。
ただ、たまには署を離れるのも、いいものだ。稲の上を渡る風に吹かれながら、葛城玲子は思った。
いつ降り出すかわからない天気だが、田んぼの現場検証も悪くない。後ろに控える部下、高橋警部補もそう感じているようだ。
「今のところ、目撃者は見つかっていません」
所轄の警官が、散発的に報告に来る。
「田んぼにはありませんが、農道沿いには何台かビデオカメラが設置してありました」
玲子は、二人に黙ってうなずいた。
今のところ、大したことはわかっていない。
田んぼに毒がまかれ、稲が枯れ、脅迫状が届いた。
身代金の要求は、五百万円。
黄金色の稲をかき分け、烏丸秀造が田んぼから上がってきた。蔵元で、田んぼのオーナー。日本一高い酒を造る醸造家だという。細面で色白、柔らかい髪を七三に分けている。繊細な銀縁のメガネに、しきりに手をやっていた。
「しかし、ひっどい話ですよ、まったく。何も、悪いことしてないのに」
蔵元が、ぶつぶつとぼやく。
「第一発見者は?」
玲子は、それには取り合わず、訊ねた。
「田んぼの向こう端にいます」
秀造の示す方を見ると、さっきの三人組が目に入った。
白い綿シャツと、ジーンズの小柄な女性。三十才くらいか。
手拭いを頭に巻いた大男は、紺のジャージの上下。身体ばかり大きい高校生が、そのまま年齢を取ったようだ。
そして、もう一人。背が低く、引き締まった感じの年寄り。おたふく顔の笑顔だが、どことなく得体が知れない。田んぼの中でも、割烹着だ。
「話を聞きたい。行くか」
大股で、あぜを歩き始める。慌てて、秀造が小走りで前に出た。先導するつもりらしい。音もなく、後ろから高橋警部補がついて来る。
田んぼの上を行き交う強い風に、稲穂があおられていた。厚い雨雲が、日差しを遮っている。田んぼは、すっぽりと秋の気配に包まれていた。
遠くは南に六甲山、北は中国山地。ここは、但馬山地の山間にあたる。見回せば、四方は田んぼ。
少し離れた低い山の麓まで、ずっと続いている。山向こうの丘陵は、竹林と雑木林が入り交じっていた。
ふと気づくと、周辺は既に稲が刈られている田んぼが多い。まだ稲穂が残っているのは、ここの他には、数えるほどである。湿り気を帯びた空気にも、藁の匂いが混じっている。
「なぜ、ここだけ生えてるんだ?」
問いかけられた秀造が、立ち止まり振り向いた。玲子の視線を追って、辺りを見回し、眉を上げる。
「ああ。酒米を知らないと、奇異に見えますね。生えてるのは、酒米。刈ってあるのは、食べる米、飯米なんです。酒米は晩生なので、あと半月ほどしてから、刈り取ります」
「サカマイとは、何だ?」
「酒を造るための、専用のお米です」
「酒とは、米から造るのか?」
「日本酒は、そうです」
「どうやって?」
「蒸してから、発酵させます」
「知らなかった。驚いたな」
思えば、日本酒が何からできているのか、原料な
ど考えたこともなかった。
「この辺りは、酒米を多く作っていると聞いてきま
したが?」
高橋警部補が口を開き、さり気なく問い掛けた。
この男は、雑学一般なんでも詳しい。
「酒米の適地なんですが、何を育てるかは、農家さんが決めます。酒米は、高く取引されますが、育てづらいので」
まわりをよく見ると、まだ、生えている稲穂の丈は長い。
「なるほど背が高いから、育てづらいのか」
玲子の指摘に、秀造が少し驚いている。
「その通りです。強い風に弱いので、倒れやすくて」
玲子が見たところ、飯米との違いは丈だけではない。この田んぼには、雑草も多く生えている。
「こんなに草が生えてるのも、酒米だからか?」
蔵元が、首を左右に振った。
「酒米云々じゃなく、オーガニックの田んぼだからです」
「オーガニック?」
玲子は、首を傾げた。
「除草剤を使ってないんです。化学肥料や農薬を使わない栽培、有機栽培農法をしているので」
「オーガニック農法、妙に高い野菜にシールが貼ってあるやつだ。見たことは、ある。だが、農薬は普通有機系の化合物だろう。有機リン系とか、サリンだってそうだ。農薬を使わないのを、有機農法と
呼ぶのは、おかしくないか」
秀造が目を丸くし、両手を広げると、手のひらを上に向けてみせた。
「そういうことは、農水省に言って下さい。連中が決めたので」
つまり、よく知らないらしい。これ以上聞いても、無駄なのはわかった。
田んぼの三人組に近づいて行くと、最初に若い女性が気づいた。丁寧に頭を下げ、肘で隣を小突く。大男も、慌てて頭を下げた。
もう一人。年寄りの女性は、目を見開き、じっとこっちを見ている。細くて黒い目の奥は、深い。何かを、値踏みしてる目だ。
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