「山田錦の身代金」第一章「三億円の田んぼ」第二節 その四

 振り向くと、タミ子だった。お地蔵さんのような微笑みを浮かべている。
 勝木課長も足を止め、不審そうな顔で振り向いた。
「あんた、何もんや?」
タミ子はそれには答えず、枯れた田んぼと用水路の間、あぜを指さした。
「よく見てごらん、箒目が残ってるだろ。鑑識の人は気づいてたよ」
 言われてみると、あぜに動物が引っかいたような跡が残っている。箒で掃いた跡にも見えた。
「なんなんや? それが」
「犯人が、箒で掃いてった跡だよ。自分の痕跡を消すためにね。奴は、ここから毒をまいて、稲を枯らしたのさ」
 勝木課長初め、全員が黙って息を呑む中、タミ子は一人笑っている。そして、用水路を指さした。
「犯人は、この用水路伝いにここまでやって来たんだろう。そしてここであぜに上がり、毒をまいた。その後、箒で痕跡を消すと、また用水路伝いに移動して帰った。臭跡や痕跡を残さないためにね」
 玲子も、薄笑いしてうなずいた。
「確かにな。農道のビデオは、参考にならなさそうだ。そんなに、馬鹿な犯人じゃないってことか」
「脅迫状に、警察のことを書かなかったのは、捕まらない自信があるからさ。あんた、五百万円がちんけな身代金だって言ったけど、それは違うね。絶対、何か深い意味が隠されてるよ。この事件の犯人は、一筋縄でいく相手じゃない」
 何が楽しいのか、くっくっくと老女将が笑う。
 勝木課長は、鼻をふくらまして、タミ子を睨みつけた。やがて、眉間に皺を寄せると、フンっとハナ息を吐き出した。
「なあに、身代金の受け渡しで、捕まえたるわい」
 捨て台詞を残すと、サッと振り返り、大股に歩き去って行く。
 待機している警官と鑑識官たちに歩み寄り、テキパキ指示を出した。さっさと撤収させていく。さすが、見事な手際だ。数人の警官だけを残し、パトカーが走り去って行く。
 第一発見者の三人組も、いったん酒蔵に帰ることになった。
「ヨーコさんたちは、誰か呼んで送らせましょう」
「僕が、送ってきます!」
 秀造の言葉に、富井田課長が、手を上げた。
「田んぼが心配で来たけど、ここにいても、お手伝いできることは無さそうだし」
「トミータさん、助かります。そしたら、お願いできますか」
「お安いごようです」
 富井田課長は、さっと車に戻ると、農道上で器用に転回させた。葉子たち三人を乗せ、猛スピードで走り去って行く。後には、砂塵が舞っていた。
 車を見送った高橋警部補が、秀造に尋ねた。
「烏丸さん。可能なら現金五百万円、準備しておいてもらえますか?」
 こういうときの口調は、極めて事務的だ。
「勝木課長の言う通り、受け渡しでの犯人との接触が、チャンスなんです」
「わかりました。後ほど、準備して来ます」
 高橋警部補が、堅苦しく頭を下げる。
「一つ、聞きたいことがある」
 玲子の問いに、振り向いた秀造。小首を、傾げた。
「本当に、この雑草が生えた田んぼが、三億円の田んぼなのか?」
 秀造の表情が強ばり、パチパチと瞬きをした。そして、恥ずかしそうに苦笑いすると、首を左右に振った。
 遠く低く、響く雷鳴が、微かに空気を震わしている。

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