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当事者意識を持とうとは言うけどさ

LGBTQ、障がい者、地球環境、AI、原発、過労死、少子高齢化、体罰、外交、貧困、コロナ対策、過疎化、不況、介護、自然災害、副業…

5分ほど考えて思い浮かんだ日本の課題です。
これ以外にも10以上はあるでしょうし、
細分化すればもっと増えるでしょう。

多いです。とても。

それら諸問題を

他人事ではなく自分事として考えよう
当事者としての意識を持って考えよう

と、世間ではよく言われる。

そりゃ同じ日本人というか、同じ人間ですから
ごもっともなことです。その通りです。

それを認めた上で

多い。


塾講師としてアルバイトをしていた私は
数十人の生徒を見てきましたが
中には勉強に前向きでない子もいました。

別にそれは悪いことだとは思っていません。
学校の勉強がつまらないと思うのは
普通のことだと思っています。

しかし、そういった思いを抱く生徒の中に
自分の進路先もろくに分かっていない子が
意外と多くいるんですよね。

保護者を交えた面談をしている時に
志望大学の情報、例えば入試科目を
生徒本人が把握しておらず
逐一、親に聞かないと答えられない。

挙げ句の果てには、志望している大学を
自分で把握していないなんてことも。

どこが第一志望なんだっけ?…と。

お前のことなんだからお前が管理しろ。

と厳しく言いました。

しかし、振り返れば
自分のことなのに把握していないことは
日常に目を向けてみればたくさんあります。

先日、iPhoneのソフトウェアアップデートで
ユーザーの利用状況を追跡して
端末上で表示する広告についての設定が
ユーザー側で変えられるようになりました。

それまで頻繁に
Googleは我々の個人情報を蓄積している!
みたいな話はよく聞きましたよね。

スマホが世に出て早10年。
10年経ってようやく
あえて乱暴な言い方になりますが
自分の個人情報を提供していいかどうかを
自分で決められるようになったわけです。

果たしてそれまでの人たちが
個人情報に鈍感だったかというと
そうではないと思います。

個人情報の保護に関する法律は
2003年に成立しましたが
どうやら個人情報やプライバシーに関しては
1970年代ごろから議論されていたようです。

そう考えれば、今日本を生きている人の
半分以上は個人情報やプライバシーについて
多かれ少なかれ耳にしたり
そういう議論に触れたりしているはずです。

それこそ、個人情報やプライバシーは
アイデンティティに関わることですから
近代社会においては最も「自分事」として
考えなければならない事象といっても
過言ではないでしょう。

それなのに、多くの人は
その危機感を感じていなかったり
危機感を感じていても行動には移しません。

お偉いさんたちがうまいこと法整備して
我々に不利益が生じないようにしてくれる。

臆面もなくそう思っているでしょう。
偉そうな文章になっていますが
恥ずかしながら私自身もその一人です。

日常から離れるように感じるかもしれませんが
(本来は決して非日常的な話題ではありません)
原発問題もそうです。

そもそも人間には制御のしにくい
核エネルギーを利用した発電方法は安全か。

仮に安全でないと結論づけたところで
それに代わる発電方法は何があるのか。

火力は二酸化炭素を大量に産み出し
地球環境を悪化させうるし
太陽光エネルギーもそれだけでは乏しい。
地熱、風力、水力は大規模な土地が必要だし
資金繰りも容易ではないでしょう。

原発問題は、
その稼働の是非についても議論の対象ですが
今まさに取り沙汰されているのは
処理水の問題でしょう。

政府は可能な限り有害物質の濃度を下げて
原発事故によって発生した処理水を
海洋へと放出する計画を進めていますが
そうする事で当地の漁業に対する
風評被害が起きると言われ
漁業組合からは海洋放出について
反対の意見が出ています。

性的マイノリティについては
最近になってやっと多くの人が
問題意識を持って関わっていますが
まだ変わっていないのが現状でしょう。

自民党が提出する「理解増進」法案は
世にはびこる性的マイノリティに対する
差別を野放しにすることと変わらない。
差別を禁止することが大事だ。
という意見があります。

自分はレズやゲイじゃないから関係ない
という話ではなく
クラスメイトや共に働く同僚がもしかしたら
性的マイノリティであるという理由だけで
理不尽な扱いを受けかねないことを考えれば
「他人事」として傍観していられないはず。

と、このように
社会には様々な問題がありますが
どれも本来は身近な事象であって
「当事者意識」を持って考え
そして行動しなければならないのでしょう。

ニュースや報道を見るたびにそう感じます。

でも、もう無理です。

あまりにも考えることが多すぎる。

同じ人間だから当事者だ。

その言葉はもはや
詭弁にしか聞こえなくなってきています。

仮に一つの議題に割くことのできる時間が
30分だとしましょう。

冒頭に挙げたテーマだけで16個あります。

30分×16個=480分=8時間

1週間に一度はそういう議論を重ねるとなると
1日あたり1時間を超える時間を
我々は費やさなければなりません。

そしてそれがあくまで議論したに過ぎない
つまり「当事者」ではなく「評論家」にしか
なり得ていないとするのであれば
それを毎週毎月、積み重ねて
いつしか行動に起こさなければならない。

1日1時間考えてTwitterやnoteに
意見を書くだけではきっと当事者意識が
欠落しているとされてしまうでしょうから。

そしておそらく
それぞれの議題について1時間勉強しても
あまり深く知ることはできないでしょう。

勉強が得意な人はできるかもしれませんが。

生半可な情報を手に入れたところで
「もっと当事者意識を持って知ろうとしろ!」
みたいなことを言われるんでしょう。

そうしないと社会は変わらないだろうから。

じゃあ最後に我々ができる行動は何かというと

投票

ということになると思うんですよね。

選挙に行って投票する。

しかし、それもえてして批判されることに。

投票するという行動自体が
批判されるということではありません。

どこかの政党や政治家(A)に投票したとしても
その人があらゆる社会課題を解決できる
マニフェストを掲げているわけではありません。

必ずどこかに相反する主張を持つ
政党や政治家(B)がいるでしょう。

社会を変えていくにはBに投票するべきだ!
と言われても
Aにだって別の社会課題を変える政策があって
決してBが解決したいと考える社会課題を
無碍にしているというわけではない。

しかし、Bに投票しないということは
その社会課題に対して当事者意識を持って
取り組んでいないからだ!
みたいに言われる。
(実際に言われたことはないけど、言われそう)

てな感じで、考え始めると

当事者意識を持って取り組むには
その議題が多すぎる。

みんな自分の生活で精一杯です。
1日8時間(大抵はそれ以上)の労働をして
健康に生きるには食事運動睡眠は怠れず
しかし、娯楽の時間もないわけにはいかない。

そこにさらに、
本来は当事者意識を持たなければならない
社会課題について考え取り組む時間があるが
そういう生き方をしていては
当事者意識を持つことがそもそも困難。

だけど、その意識に乏しいと
意識が低いだのなんだのと言われる。


みんなはどうやって生きてるんですか。


時間にゆとりを持てるように
知恵を絞って進化してきたはずの人間が
時間が足りないと言っている。


評論家止まりになってしまうのも
仕方のないことなんじゃないですかね。

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