【小説】送り梅雨

 雨が続いてじめじめした季節。
 ぼくはアマガエルなのにこの季節が大嫌いだ。帰ろうにも雨に濡れるのが嫌で、葉っぱの下で雨宿りをしていると
「乗って行くかい?」
 と、トカゲのタクシーに声をかけられた。トカゲのタクシーはヘビのタクシーと違ってうっかりぼくたちを食べることもないし、屋根のついたカゴに乗せて運んでくれる。何より速くて便利だ。
「あ、はい。紫陽花ヶ丘までお願いします。」
「紫陽花ヶ丘? すぐ近くだけどいいのかい。」
「はい、あんまり雨に濡れたくないので。」
「そりゃまあ、うちは屋根もあるけど……お客さん、カエルなのに変わってますね。」
「よく言われます。」
 カゴの中に入るとトカゲは帽子を被り直し、だんだん速度を上げていった。
「そういやちょうど二年くらい前ですかね。声をかけても自分の足で伝えたいって言って聞かないカエルがいましてね。かなり弱っててかわいそうだったけど、意志が強い子でね。」
 そんな客のプライベートをベラベラと喋っていいものかと思いながら話を聞く。
「よく覚えてますね。」
 するとトカゲは、
「そりゃあ覚えてるよ。私が出会ってきたカエルの中で一番かっこよかったからね。」
 かっこいい、か。そんなカエルに会ってみたいな。

 雨はまだ止む気配はない。水溜りにたくさんの波紋が広がる。跳ね返った水がだんだんカゴを濡らす。まだ降り止みそうにない、どんよりとした天気にため息をつく。こんな日は緑太ろくたが死んだときのことを思い出す。

 ――――――――

「おーい緑太、今日も基地いくぞ。」
 秘密基地に行くのは三日に一度。これは基地を作るときに二人で決めた。毎日だと行けないときに責任を感じるから。ぼくにはこのくらいの距離感がちょうど良い。
「緑太?」
 いつもなら玄関の前でぼくのことを待っている緑太が、珍しくいなかった。
「ごめん、今日はちょっとやめておくよ。」
 家の中から聞こえた声は、少し元気がなさそうだった。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「まあ、ちょっとね。でも全然平気だよ!」
 さっきの心配は杞憂だったかと思うほどに明るい声に戻った緑太に安心した。
「そうか、まあ今日はゆっくり休めよ。」
 そう言ってぼくは一人秘密基地に向かおうと背を向けると、「ねぇ、若草くん。」と呼び止められた。
「ん?」
「もしぼくに何かあったら後は頼んだよ。秘密基地も、翡翠さんも。」
「何言ってんの。ぼくたちはケロケロ鳴いてかわいいお嫁さんを見つけるんだよ。君には翡翠がいるし。それから子沢山の家庭を築くんだよ。」
「あぁ……そうだね!」

 この三日後に緑太は亡くなった。
 今思えば妙な会話だ。なぜ緑太はあんなことを言い出したのだろう。

 ――――――――

 タクシーを降りても雨はまだ弱まらなかった。

「ただいま。」
 この家は木の根の間にある。中の空洞の半分が水に浸かっていて、僕らもオタマジャクシも過ごしやすい家だ。
「ぱぱーおかえり。」
「ぱぱ、みてみて、足生えた。」
「ぱぱ、雨子がね。」
 一斉に集まってくるオタマジャクシたちを撫でた。
「はいはい、みんなただいま。」
「お帰りなさい、雨大丈夫だった?」
「平気。帰りはタクシーで帰ってきたし。」
「そう? それなら良かった。あなたカエルなのに雨嫌いだもんね。」
「そう、だな。」
 ぼくには同い年の鮮やかな緑色の妻がいる。可愛くて優しいカエル。ぼくには勿体無いカエル。
「どうしたの?」
 その声で初めて自分がぼーっとしていたのに気がついた。
「いや、なんでも。」
「まあ、あなたの場合これだけ雨が降ると滅入るわよね。人間もこの時期を梅雨って言って、嫌がる人が多いみたい。」
「そうなのか。」
 ママ友が話していたらしい。妻はカエル当たりがよく、他の生き物との交流も深い。オタマジャクシの頃から友達が一人しかいなかったぼくとは正反対だ。
「そろそろよね。緑太くんの命日。」
「……。」
「今年は行ったら? お墓参り。あなたが来てくれたらきっと喜ぶわよ。……そんな渋い顔しないの、行けるときに行っときなさいよ。」
「……考えとく。」
 翡翠はため息をつくとオタマジャクシの元に寄って行った。
「翡翠はさ、ぼくで良かった?」
「……子供の前なんだけど。」
「ごめん。」
「私は最初からあなたが好きよ。」
 それが優しい嘘なのか、本音なのかは彼女の背中からはわからなかった。できれば本音であってほしいと思いながらぼくは土の中で眠りについた。

「――ねぇ、若草くん。もしぼくに何かあったら後は頼んだよ。秘密基地も、翡翠さんも。」
「……。」
 目を開けても雨の音はしない。ぼくは起き上がって、外を覗いた。今日は昨日とは違いどんよりとした天気だが、雨はまだ降っていなかった。
「秘密基地、ね。」
 雨は嫌いだが湿気が多いと元気になるのはカエルの性。ぴょんぴょんと家を飛び出し、二年ぶりに緑太との思い出の場所に向かった。

 ――――――――

「秘密基地作ろうよ。」
「急にどうした?」
「いや、ただの思いつき。」
「なんでお前の思いつきにぼくを巻き込むんだ?」
「え、だって友達でしょ。」
「そうだけど……。」
 住処以外に居場所を作るのは当時の流行りだった。また、カラスやタガメから身を守るのにもちょうどよく、まだ手も足も生えていないぼくたちオタマジャクシは、池のどこかに秘密基地という名の居場所を作っていた。
「お願いっ。ぼくには若草くんしか友達いないんだよう。」
「寂しいやつだな……。」
 自分のことは完全に棚に上げている。彼をかわいそうに思ったが、自分を頼ってくれたのは少し嬉しかった。
「……で、どこに作るの?」
 わかりやすく緑太の顔が明るくなった。泳ぎ出す彼の後をついて行くと、
「あそこ!」
「あそこって……。」
 緑太の視線の先は池の外だった。
「どうやってあそこまで行くんだ?」
「まだ行けないよ、ぼくら手も足も生えてないからね。」
「あのなぁ……。」
「大人になったら、あの草で覆われた……そうだね、ちょうどスズランが咲いているあたり。あそこに作ろうよ。」
「ちょっと待ってよ。それを今作る必要あるか?」
「大人になっても、友達でいたいから……。」
 別に基地なんか作らなくても友達でいるさ。緑太は期待と不安が混じった顔でこちらを見ていた。
「どう、かな?」
 少し意地悪でもしようかと考えたが、いつも一人で過ごしている寂しそうな緑太の姿を思い出すと、断る選択肢はなかった。
「ありがとう。約束だからね!」
 嬉しいのか緑太は尾を左右に大きく動かして音符のように泳いで行った。

 ――――――――

 久々にきた秘密基地は、手入れをしていないため草も伸び放題だった。近くにスズランが咲いていなかったら、どこかわからなかったかもしれない。草を掻き分けて穴に入ると、集めた石や拾った王冠がまだ残っていた。
 少し窮屈になったなと思いながら辺りを見回すと、ぐしゃぐしゃに丸められた葉っぱを見つけた。
「こんなのあったっけ?」
 広げてみると宛名が書いてあった。
「若草くんへ」
「ぼく宛?」
 葉っぱを裏返すとぼくに宛てた手紙が書いてあった。

『この手紙を読む頃には、ぼくはもうこの世にいないと思う。こんな形で別れをいうことになってごめんね。きっとぼくは心配させたくなくて君に直接伝えられないと思うから、手紙にしてみた。最近食欲がなくて、皮膚もぼろぼろになっていくんだ。君もこの病気は知ってるよね。どんどん衰弱して最後には心臓が止まって死んじゃう。どうして感染しちゃったんだろうね、免疫なかったのかなぁ笑
 ああ、でもやっぱりちゃんと伝えておけば良かった。』

『ぼくの友達でいてくれてありがとう。』
 思わず手紙を強く握った。口を固く結んで、潤む視界から雫をこぼさないようにするのがやっとだった。
「言えよ……そんなの、直接言えよ。」
 泣かないよ。ぼく、泣かないよ。
 この手紙を読んで気がついた。彼が病気だったから、辛く苦しい思いをしていたから、あの日ぼくに託したんだ。
 今更気づいたことに後悔した。もしかしたらぼくだけが気づけたかもしれなかったのに。
 ぼくはその場に座り込むと手紙の折り目をなぞった。
「……あれ、でもなんで丸められているんだ?」
 それは手紙というにはあまりにもぐしゃぐしゃで、広げなければゴミと見間違うものだった。いくらなんでも友人に宛てた手紙をゴミ同然に扱うのに違和感を抱いた。
 緑太が死んだのは紫陽花ヶ丘向かいの道路だ。この基地からだと少し距離がある。こんな手紙を書くほどに弱っているのにどうしてそこまで来たんだ?
「……もしかして。」
 手紙を置いて基地を出ると、雨が降っていた。一瞬顔をしかめるも、そんなことは気にしていられなかった。ぼくは急いで事故があった道路に向かった。
「はぁ、はぁ、はぁ。」
 雨はどんどん強くなった。道路の近くで辺りをキョロキョロ見回していると、
「あー、昨日のお客さん。また乗って行きますか?」
 昨日と同じトカゲのタクシーに声をかけられた。
「トカゲさん! 聞きたいことがあるんですけど!」
 その勢いにトカゲは驚いたのか目を丸くした。
「びっくりした、危うく尻尾切っちゃうところだったよ。」
「あっ、すみません、あの、二年前の話、詳しく聞かせていただけませんか。」
 息を整えながらトカゲに聞いてみる。
「あぁ、あのかっこいいカエルの話かい。もちろん。」

 ――――――――

「やっぱり、ちゃんと、伝えなきゃ。」
 手紙を残して死ぬなんて、ずるい。きっと死んだ後に若草くんに怒られちゃう。
 ぼくは手紙をぐしゃぐしゃに丸めて皮膚が剥がれ落ちて痛む背中を気にしながら秘密基地を飛び出した。
 雨が強く降っている。背中に当たる雨はまるでアザミの棘のようだった。
「若草、くん、に。」
 衰弱した身体では前に進むのがやっとだった。けれど一度立ち止まれば、もう二度と歩き出せない。そう本能的に感じ、自分の身長よりはるかに高い草をかき分けて、無理矢理一歩、また一歩と前進した。ぬかるんだ道は歩きづらく、まとわりつく泥が足を絡める。そんな悪路を数十分かけて歩く。
 若草くんの家は、あの道路の向こう……。
「あぁ、遠いな。」
いつもならどこでも見渡せる目も、今は瞼が重くて半分しか見えない。前が見えなくて小枝に頭をぶつけると、
「ちょっと君、大丈夫かい?」
 目の前には心配そうにぼくを見つめるトカゲのタクシーがいた。
「平気です、あと、ちょっとなので。」
「それでも君しんどそうだよ、それに……。」
 トカゲは緑太の体を見て悲しげな表情を浮かべた。
「君もしかして。」
「はい、長くなくて。」
「それなら尚更乗って――」
「いいんです、自分の足で、言葉で、伝えたいんです。」
 じゃなきゃ意味がないんだ。昔から若草くんに頼らなきゃ何もできなかった。一人で行動できる若草くんはぼくの憧れだった。秘密基地だって、若草くんがいいよって言ってくれなかったらやらなかった。博識でかっこよかった。最期くらい、この想いだけは、一人で伝えなきゃ。
「……そうかい。じゃあ、これ以上は引き止めないよ。」
「ありがとう、ございます。」
 進む、進む。足を止めたら、もう、一歩も進めなくなりそうだから。重い体を前へ前へと進めることだけを考える。若草くん、待っててね。
「基地のことと、翡翠さんのことと、あとありがとう。うーん、他には、えっと、えっと……。」

「――お前いつも一人だな。」
 ――どうして声をかけたの?
「――寂しそうに見えたから。」
 ――そんなこと……あるかも。
「――なってもいいよ、友達。」

 ああ嬉しかったな。あんなふうに声をかけてくれたの。若草くんが初めてだった。
 道路に差し掛かる。白い場所と、手触りの違うざらざらした石の場所がある。いつか電柱に登った若草くんが、道路に沿って続いてるって教えてくれたっけ。いつもなら、こんな白線、ぴょんと一回地面を蹴るだけで飛び越えられるのに。ゆっくりゆっくり時間をかけて、地面を這うように進む。右から猛スピードで走ってくる車にも気づかないで。
「ふう。次の白線が遠い、けど。あと、ちょっと――」
 プチンッ。

「ん、何か踏んだか?」
「カエルじゃないか? 雨も続いてるし、出てきたんだろう。」
「そうか。なんで道路なんかに出てくるんだろうなぁ。」
「全くだよ。」

 ――――――――

「ぼくに伝えるために……。」
 目から溢れる涙はとどまることを知らなかった。雨が降っていて良かったなんて思ったのはこのときが最初で最後だ。
「なんだ、知り合いだったのかい。」
「親友です、ぼくのたった一人の。」
「そうか、あの後会えたのかい?」
 ぼくは俯いて首を横に振った。それに釣られてトカゲは帽子を外し、目線を落とした。
「……気の毒だったね。」
「いえ、ありがとうございました。」
 ぼくが礼を言うと不思議そうに首を傾げた。
「どうして緑太が事故にあったのか。晴れの日も雨の日も、冬を越すときだって土の中でずっと考えてたんです。今日、ようやくわかりました。」
「そうか、それなら良かった。」
「教えていただきありがとうございました。」
 トカゲにぺこりと頭を下げて、とぼとぼ道路を渡る。
 緑太はぼくに会うために、死んだ。後悔してないかな。いくら病気だったとはいえ、最後くらいは家でゆっくりしたかったんじゃないかな。ぼくがいたから、無理しちゃったんじゃないかな。ぼくがあのとき、基地を作るのを断っていれば――。
 そんなことを考えていると
「危ない‼︎」
 走ってくる車に気が付かなかった。
「あ、死ぬ――」
 背中にやわらかい感触がした。
 車は止まることなく走って行きだんだん小さくなっていった。
「……あれ、死んでない。」
 振り返るとぼくは道路を渡り切っていた。
「大丈夫かい⁉︎」
 トカゲは商売道具のカゴも置いて、ものすごいスピードで道路を横断してきた。
「大丈夫です……。」
「それにしてもよく助かったね。」
「ええ、本当に。」
 わからない。気づいたときには、いくら思い切りジャンプしても助からない距離だった。
「怪我はないかい?」
 背中をさすってみても傷ひとつなければ、痛みも感じなかった。
「平気っぽいです。」
 そういえば、背中に何かぶつかったような感覚があった。それはまるで同族に体当たりされたかのような。
「……。」
「とにかく、気をつけて帰るんだよ。」
「はい、ありがとうございます。」

 今日も相変わらずの雨だった。昨日から降り止まない雨のせいで、近くの側溝の水は溢れていた。
 道路のそばに小さなスズランの花を手向けると手を合わせ、目を閉じた。もう緑太を思い出すのが辛くて嫌いだった雨に濡れることには、少しも頓着しなかった。
「珍しいわね、雨なのに嫌がらないなんて。」
「もういいんだ。」
「なに、どうしたの?」
 少し心配そうに見つめる翡翠に笑顔で「大丈夫だよ。」と答える。
「そう。」と呟いた彼女は少し嬉しそうだった。
「ちょっと変わったわね。」
「へ?」
「なんか元気になったというか、吹っ切れたというか、晴れてる。」
 笑う彼女に「今は雨だよ。」と空を指差し冗談を言うとぷにぷにした手で背中を叩かれた。
「……そうだ、昨日外に出た?」
「昨日? 昨日は家の周りで虫獲ってたけど、それ以外は特に。なんで?」
「いや別に。それ嘘じゃないよね。」
「嘘つくのはヘビだけでしょう。」
「それもそうか。」
 二人で笑い合ってると雨がだんだん弱まってきた。

 ひとしきり笑ったあと、翡翠が不意に話し出した。
「そういえば、ママ友の青子さんが話していたんだけど、人間の世界では命日に死んじゃった人が帰ってくるらしいわよ。」
「生き返るってこと?」
「んーその辺はよくわからないけど、そうだったら嬉しいねって話かしら。人間の考えることって面白いわよね。」
「……。」
 昨日のことを思い出して背中をさすると
「ごめん、そんなに痛かった?」
 と翡翠がぼくの顔を覗き込んだ。
「ううん、違うよ。」
 雲の切れ目からやわらかな光が差す。まるでぼくらを優しく包むように。
「目がキラキラしてる、やっぱりなんかいいことあった? 雨も克服しちゃうくらいいいこと。」
「うーん、そうだね。かっこいいカエルの話を聞いたんだ。」
 空には虹がかかっていた。
「世界で一番かっこいいカエルの話。」


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