ハッピー精神のフワちゃんを今日少し好きになった

目的としてその行動を取るのは嫌だけど、手段としては良いということってある。


例えば、
社交的なイベントに参加する(目的)のは面倒だけど、新しいビジネスチャンスを見つけるため(手段)には有効である、とか。
刑務所に入る(目的)のは絶対に嫌だけど、規則正しい生活、3食確約された食事を摂るため(手段)には適正である、とか。

これらはその行動を目的にすること自体は望ましくないけれど、何かの手段としてその行動を取ることには利益があるということだ。


私はネガティブで考えすぎな性格で、
何か高い壁が目の前に現れると、「私には無理かも。もうだめだ」とすぐに嫌になって、現実回避してしまう傾向にある。歳をとると、そういった現実回避自体も良くないと学び始め、袋小路的なネガティブ思考に走る。

「毎日ハッピ〜〜〜!」
「何があっても大丈夫〜〜〜!」


今日、気まぐれに、そう思うことにしてみた。

そしたら、みるみるうちに楽しくなってきて、今なら目の前の高い壁を乗り越えられそうな気がしてきた。
人生どうでも良くなれというようなポジティブな自暴自棄感が、歳をとるうちに失敗を恐れる私にはちょうど良い感じに作用する。


手段として、毎日ハッピ〜〜!精神でいることは良いものだ。
そういった精神でいることで、高い壁も乗り越えられる自信とやる気がついてくる。



毎日ハッピ〜!で思いつくのは、フワちゃんやkemioといった芸能人。
何だか訳が分からないくらいのうるさいハッピー精神の人達。


この人達のハッピー精神は目的であるのだろうか、手段であるのだろうか。
もし手段である場合、ハッピー精神であることによって、その裏で育まれている彼らの何かがあるのかもしれない。



私はこういう人たちがうるさくて苦手であるが、それは彼らが何も考えていないような彼らの薄っぺらさと馬鹿っぽさが嫌だった。
何があっても大丈夫〜!毎日ハッピー精神、何も考えてない、考えることを停止しているように思っていたからだ。


ただ、ハッピー精神が手段の場合、その裏には、ハッピー精神が作用している何かがあるのかもしれない。

例えば、ハッピー精神でいることで、考えることを放棄しているのではなく、むしろ深く物事を考えるために、ハッピー精神によって、心配事を極力減らし、脳のリソースを物事を熟考するために費やしてる可能性がある。


それは私が今まで思っていたような「ハッピー精神は考えることを停止している」という状態ではなく、むしろ、「物事を熟考するための手段としての状態」であるとも言える。


そう気づくことができたことで彼らを見る目が変わったし、
今日、私は少しフワちゃんを好きになった。


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