ハルニレ

身の丈を知る日々の泡

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最近の記事

極私的邦画(1970年以降)オールタイムベスト

県警対組織暴力(1975年)◎ https://eiga.com/movie/36283/ 深作欣二監督 菅原文太 梅宮辰夫 松方弘樹 祭りの準備(1975年) https://eiga.com/movie/39498/ 黒木和雄監督 原田芳雄 竹下景子 遥かなる山の呼び声(1980年)◎ https://eiga.com/movie/38898/ 山田洋次監督 高倉健 倍賞千恵子 吉岡秀隆 遠雷(1981年)https://eiga.com/movie/3

    • spring ephemerals

      「エフェメラル」とは刹那、儚いという意味を持つ。 この季節、桜にばかり目が行きがちだが、山では他にもたくさん見るべき花が咲き始めている。むしろ山桜はまだこれからのこと。 「春の儚い命」と呼ばれる植物がある。 春の短い期間にだけ花を咲かせる植物たち。写真は、今日山の中で出会ったスプリング・エフェメラルの「カタクリ」と「キクザキイチゲ」 2つの種の群落が、芽吹く前の木々の下、灰色の世界の輪郭をそこだけ見事に彩っていた。 スプリング・エフェメラルと呼ばれる花はいくつかあるが

      • 桜の樹の下には屍体が埋まっている

        梶井基次郎の有名な冒頭の一文だが、坂口安吾も「桜の森の満開の下」で、むかしのひとは桜の花を怖れていた、と触れていたことを思い出す。 たとえばこぶしの花のたっぷりとした白に比べ、桜の花のその白は、それぞれの心を濾過してしまうような、純度へと向かわせる畏れがある。 花が透かしているのは何だろう。季節や時間の儚さか、人の心の脆さのことか。ふとすると透けて見えるあちら側へと連れ去られてしまうような瞬間。 ひとしきりソメイヨシノが咲き誇ったあと、山の中で唐突に咲く山桜と出会うとき

        • オッペンハイマーを観る

          オッペンハイマーを観る。 物語の構成が不親切な部分は逆に集中力が増すほうに作用していると思った。180分は長くはない。 原爆の発明という歴史的事実を、あくまでオッペンハイマー個人の人生を追体験することで、クリストファー・ノーランは人間を描いている。今まで人間描写に乏しい印象を持つノーランの新しい側面を見た気がした。 面白い映画かといえば、観ていて面白くはない。事実見終わったあとに「疲れた」という声も周りから聞こえてきた。けれども、面白いという物差しとは別の意味で観なけれ

        極私的邦画(1970年以降)オールタイムベスト

          ある追憶に

          さみしさを纏う外套があったなら 輪郭を縁取ることなく あなたと私の消失点で像を解き 互いの記憶の曖昧さに溶け込んでゆける 夕暮れの色にぼんやり佇むひとたちが 遠く住んでいた場所を忘れようとするように 私はあなたのことを思い出しています

          欲の在処

          欲とはそれ自体、発散もされないし、満たされもしない。いくつになっても生きることは、しみじみと難しくも、愛おしい。 できることは欲の在処を変えること、と知ってはいても、繰り返される性的衝動に今日も巻かれて生きている。 柔らかな春の雨が降っている。春を欲していた心には、不意に今夜の雨に満たされてしまうことだってある。 その場所に欲がなければ、その場に欲情することもない。かといって私の欲とあなたの欲を重ね合わせ、お互い欲まみれの先に行けることなど、人生には滅多に起こらない。

          消失点

          バランスを取ろうとするのはいつものこと。プラスになった分はマイナスのことをしてバランスを取る。ゼロに均してしまえば、足の裏をきちんとつけていれるでしょう。 言葉の比喩が面白いですねと云われれば「意味」が嫌いなんです、と嘯いている。 言葉って、限定することだから、伝えなきゃいけないと思えば思うほど、そこから逃れたくなってしまう。 たとえば私が、水のようなひと、と伝えたならば、それは湿度や温度のことよりも無自覚な、原始的な溶液が伝って注いでるイメージを抱くから。でもそんなこ