オッペンハイマーを観る



オッペンハイマーを観る。


物語の構成が不親切な部分は逆に集中力が増すほうに作用していると思った。180分は長くはない。


原爆の発明という歴史的事実を、あくまでオッペンハイマー個人の人生を追体験することで、クリストファー・ノーランは人間を描いている。今まで人間描写に乏しい印象を持つノーランの新しい側面を見た気がした。


面白い映画かといえば、観ていて面白くはない。事実見終わったあとに「疲れた」という声も周りから聞こえてきた。けれども、面白いという物差しとは別の意味で観なければいけない映画だと思う。


東京裁判を観たときにも考えたことだが、選択する立場にいた生身の人間が、情況が一変したのち、組織ではなく一個人として判断を問われた際、自らのかつての選択に戸惑い、言葉が出ない表情というものがある。


選択に対してではなく、情況に対して戸惑いの表情を浮かべ、なぜ自らのみが責めを負うのかが理解できない。


情況は人を支配する。情況に支配されない人間は、選択をしないとも言えるだろう。


ひとは自らの意志において選択し情況を作り出すのではない。否応のない情況の中で選択したことが、特に戦争の中では意志として置き換えられていく。だからこそ、その後一変した情況下で表す顔というものがある。


主演のキリアン・マーフィーはその顔の表情が圧倒的に上手く、クリストファー・ノーランが描きたかったことは、圧倒的な映像と音楽ではなく、この表情にこそ宿っていたのではないかと思った。

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