海外で生活している日本人達が言う『日本ではマイペースに自分らしく生きることは難しい』・『日本では個性が潰される』・『日本では出る杭は打たれる』は本当か?


「人生は仮面の付け替えの連続でございますよ。元の顔は変わらないのに、ある時はアメリカ人の顔をして、ある時は娼婦の顔をして、ある時はこびへつらう安商人の顔をする。まあ、元の顔を整形しちまうやつもいるでしょうけれどね。ですがねぇ、顔なんてのは所詮、馬鹿な人間を騙すためのもんでございまして、本当に大事なことは心でございますよ。ところが近頃は、その心にまで仮面を付けようという輩が現れておりますな。おまけに心を交換しちまおうなんてやつもいる。だから時々、自分探しとかなんとか言って、心を探しに行ったり、仮面を探しに行ったりしているわけでございますな」

峯岸達夫『精神商人』

なぜワーホリ勢は暗に日本を批判するのか

 ワーキングホリデーや留学などを利用して、日本の外に飛び出してオーストラリアやカナダなど、日本以外の国に短期移住した日本人たちは洗脳でもされたかのように口を揃えて『マイペースに自分らしく生きていいんだ!海外って素敵!』とか、『海外では型に囚われず個性を大切に生きられる!』とか、『出る杭は打たれなくて、むしろ個性だと受け入れられる!』と宣伝して仲間を集め、承認欲求を満たしたいのかと思うほど同じことを書いている。
 私はこのような発言に疑念を抱かざるを得なかった。
 というのも、なぜ海外移住をした日本人の多くがそのような点を強調するのか疑問に思ったからである。楽しい生活をしているのであれば、そのような点を書き記すことはむしろマイナスでしかない。なぜなら、日本に住んでいる人間からの反発を起こす可能性があるからだ。

批判という名のステルスマーケティングに騙される

 海外に住んだことのある日本人が日本の環境を批判するのは、一種のステルスマーケティングではないかと私は思う。『日本良い国 一度はおいで勢』と『日本オワコン 海外脱出勢』という対立構造を生むことによって、『日本オワコン 海外脱出勢』はビジネスを始めることができる。如何に日本が他国に比べて劣っているのかを列挙し、一見すれば日本人を鼓舞しているかのように思えるのだが、内実は考える気力の無い人たちが上辺だけをさらって『日本はオワコンらしい。マジ最悪』とか言いながら日本でダラダラと生活をしていたりする。
 悲しきかな、このような『日本オワコン 海外脱出勢』は金も知恵もある賢い人たちであるから、『日本良い国 一度はおいで勢』がとんでもない馬鹿に見えるように風潮を作り上げる。地理的優位性を盾に「まだ日本なんかで生活してるの?もっと能力付けて良い国に住めよ、税金の安い国に行けよ」とか、「世界のエリートは英語が話せますよ。日本語しか話せなかったらいずれ生きていけなくなるよ」と、簡単には実行できないことを言って苦しめるのである。禁固刑を食らった犯罪者に刑務所から脱出しろとでも言わんばかりに。
 このようなお節介を真剣に考えてしまった結果、金も知恵も無いのに日本はオワコンであると考える馬鹿が生まれてしまう。さらにはオワコンである日本から抜け出せない自分こそさらにオワコンであると考え(どうやらその程度のシンプルなことは考えられるらしい)、絶望する、或いは現実から目を逸らす。
 一部の本当に能力のある人たちは一所懸命に努力して日本脱出を試みるだろうが、果たしてそのようなことをしなければならないほど日本はオワコンなのだろうか?
 マイペースに生きられず、個性も発揮できず、出る杭は打たれるのが日本の社会なのであろうか?
 筆者は今一度、それについて考えてみたい。

隣の芝生は青く見える

 日本にいるときは四六時中、日本の悪いところばかり気にするくせに、海外に行った途端に住んだ場所の良いところばかり見つけて、素敵な海外生活を世界に発信する人たちがいる。私からすれば日本にいるときも良いところを気にする癖をつけろよ、と思うのだが、そのような人達が結論づけるのは「環境とか生き方とか、自分で決めていかなきゃね。やるっきゃないっ!ぴっ!ぴっ!」であるから、もはや暴走族と同じである。散々喚き散らして他人を不快な気分にさせた後で、「俺たちの生き方は、俺たち自身で決める!」と言い出すので、額に『因果応報』というタトゥーを入れてやりたいくらいである。もしくは学ランの裏の『夜露死苦』の文字の代わりに『因果応報』でもいいくらいだ。このネタは古すぎて伝わらないかもしれない。
 しかしながら、そのような自由奔放な人達を優しい目で見つめてあげなければならない。彼らは一様に『隣の芝生は青く見える病』にかかっているのである。
 生まれてから成人するまで親の世話になり、何十年という人生を日本で過ごした人であっても、海外に行けば海外は日本より良い環境だと思うのだから、よっぽど日本に思い入れが無いか、単純に恩知らずなだけかもしれないと思うのだが、近頃はそのような『恩』ということもあまり気にしない人が増えたのだろう。
 たかだか一年を過ごした海外と、何十年と生きた日本ではやはり一年を過ごした海外の方が輝いて見えるのは致し方ないことなのかもしれない。長年付き合った老夫婦の大半がいがみ合ったり、旦那が死ぬと奥さんの方が活き活きし始めるのと同じような現象なのだと思う。長く付き合えば付き合うほどに、色々と嫌な点が目に付いてしまい、それが次第に積もり積もって爆発し離婚ということになる。近頃は、その積もり積もるスピードも速くなりあっという間に離婚する人たちがいる。付き合ったばかりの男女の恋は三ヵ月で冷めるというように、日本から海外へ行った人たちも大体そのような感じである。

海外に住むとは、新しい恋人とのお試し恋愛だ

 世の中には付き合った彼氏彼女自慢というのをする人たちがいる。ワーホリ勢や海外移住勢も大体それと同じようなものだ。それまで付き合っていた日本という恋人から一時的に距離(一生距離を置く人たちもいるが)を置き、新しい恋人であるオーストラリアやカナダなどとお試し恋愛をする。昨今の若者がTinderなどのマッチングアプリを使って男漁り・女漁りをするような感覚で海外へ一年間のお試し移住をするのである。
 新しい恋人と付き合えば、最初のうちは顔がカッコいいとか、声が素敵とか、心惹かれた特徴的な部分に目が行くであろう。オーストラリアで言えばオペラハウスが綺麗だとか、カナダではナイアガラの滝の景色が最高だとか言う感じである。
 ところが長く付き合えば付き合うほど必ず悪い点だって見えてくるのだ。顔はかっこいいが浪費癖があるとか、声は素敵だが屁を頻繁にこくとか、嫌な部分が見えてくるまでにはラグがあるのだ。そのような過程を全て経過した最初の恋人である日本は落ち着いてその様子を見ているであろう。
 もちろん、そのような嫌な点も受け入れて生きていく人もいるであろう。それはそれで悪いことではない。だが新しい恋人と付き合っている最中にあなたが発した元カレ元カノである日本に対する不平不満や愚痴は、残念ながら忘れ去られることはないのである。それはあなたの心の中に残り続け、ひょっとすると付き合わざるを得ない日本を変えようと思い立つかもしれない。だが日本は日本である。どれだけ変えようと試みてもあなた一人の力ではどうすることもできない。だからそうなったらあなたが変わるしかないのだ。
 新しい恋人であるオーストラリアやカナダだって、あなたを本当に受け入れるかどうかなんてわからない。良いところだけ見せて、悪いところまで見せない可能性だってある。どうせ一年かそこらで離れるのだから互いにドライな関係であっても何ら不思議ではないのだ。
 もちろん、新しい恋人とお試し恋愛をしてみて、合う合わないというのは双方にあるだろう。筆者としては、新しい恋人とのお試し恋愛中に元カレ元カノと比べたり愚痴を言ったりするのは危険であるから気を付けよと忠告しておきたい。

日本はなぜ、海外に移住した日本人から批判されるのか

 『日本オワコン 海外脱出勢』に煽られたり、自由を求めた結果として海外に行った人たちにとって、お試し恋愛期間は極上の体験であろうと思う。それでも、私は日本が素晴らしい国であり、確かに至らない点は多々あって改善の余地はあるとしても、先進国としての高水準のスペックは備えていると考えている。
 海外に行くと『海外はテキトーでもOK。親しみやすくてサイコー』と言う人がいるが、裏を返せば『ドタキャンもOK、なんでもタメ口で会話しよう』と言っているようなものだ。海外では電車やバスなどの公共交通機関が運転手のわがままによって停まったり、ストライキが起こって仕事が止まったりと、なかなか予定通りに物事が進まないことがある。
 日本、ひいては日本人の美徳というのは調和とか協調である。私もあまり好きな言葉ではないが、この調和を重んじるからこそ、あらゆるものが正常に不備なく活動しているのである。注文した品物は予定の日時に届くし、電車やバスは寸分の狂いなく時刻通りに来る。約束を守るということが信頼に繋がるということを熟知しているのである。
 ところが、ワガママな人間はそうではない。
 自分の嫌なことを調和を乱してまで主張する。かつてラジオ番組で胸と態度がデカいグラビアアイドルが突然、降板することを宣言して翌日から事務所をクビになったりした事件があったように。
 そのような点で言えば、日本には調和を重んじるがゆえの生きづらさは確かにあると言える。人間だから日によって気分も違うであろうし、時には仕事に行きたくない日だってあるだろう。そのような調和と協調の枠から飛び出したいと思う気持ちは分からなくもない。だが、どんな場所であっても調和と協調は強弱はあれど存在する。まさかコーヒーを注文したのに出てこないとか、ロングブラックを頼んだのにフラットホワイトが出てきたとなれば、これはもう信頼を失ってしまう。
 海外に行った人たちが言う『日本ではマイペースに自分らしく生きることは難しい』・『日本では個性が潰される』・『日本では出る杭は打たれる』というのは、ひとえに調和によるまとまりを強く求めているからである。
 少し深く考えてほしい。会社に入社したばかりの人間が会社の指示を聞かずにマイペースに仕事をして、個性を存分に発揮したら、それは会社と歩調が合っていないということになる。まずは会社のルールを知り、それに沿って行動をしなければならない。あなたが作った会社でない限り、マイペースとか個性というのは求められていないことに気づかなければならない。そして、それは日本だけでなく世界中どこでもそうである。だが、これに気付かない人たちが、海外に移住した途端に日本を批判するのである。

個人事業主が多く、大企業が少ないから個性を発揮出来たり、マイペースに生きられると感じやすい

 海外に移住した日本人たちが、日本と比べてマイペースに生きられたり、個性が発揮できるという結論に達しがちなのは、単純に個人事業主が多いからという点にあると考えている。はっきりとデータが無いのでこれは筆者の主観によるのだが、オーストラリアで生活した体感としては、日本と比べて大企業に勤めている人間が少ない。また、ABNという個人事業主やフリーランサーが開業する際に必要な番号があるのだが、その取得も容易で数多くの個人事業が至る所にある。
 日本ではリクルートなどのウェブサイトを利用したり、大学に企業説明会に来た企業などを通して会社に就職する。だが、ワーホリで来た日本人の多くは大企業に就職する人たちとは違って、個人経営のレストランであったり大規模な農地のオーナーの元で働いたり、小さな建設会社で働いたりするなど、大量の従業員を抱えた世界に名だたる大企業に勤めるというのはほとんどないと言ってもいい。だからこそ、僅かな従業員で経営されている店に就職し、オーナーとの距離が近いがゆえに自由があると感じやすいのではないかと思うのである。
 個人経営のオーナーに近ければ近いほど、そのオーナーの人柄ゆえに成り立つとか、親切で親しみやすくてマイペースに仕事が出来ると感じられるのではないだろうか。さらには作業自体がシンプルである可能性もある。カフェであったり、レストランであれば、すでにシステムが出来上がっているから、余計な書類管理やら専門的な金勘定やら気にすることもないし、大企業が掲げるような未来へ向けたミッションなどということも考える必要が無い。
 そのような点に意識が向かないまま、海外はマイペースに生きられて、個性がはっきりしていて、みんながテキトーでフレンドリーであると結論付けるのは早計である。
 日本でも個人事業主になったり、個人事業主と関わればそれらのことは十分に感じられるであろう。しかしながら、生きていくためにはマイペースで個性を発揮ばかりしていては、商売が成り立たないことが殆どであることを忘れてはならない。まして自分だけでなく従業員を雇うともなれば、それぞれの能力や性格などを鑑みて、チームとして動いていかなければならないから、マイペースで調和を重んじない状態では厳しいと思われる。
 とはいえ、自分で事業を始めて自分の責任で物事を進めるのであれば、起業に勤めるよりも遥かに自由度は高いであろう。そういった環境づくりは日本でも出来るし、むしろ日本語が母語なのだからより快適に仕事を進めることができるであろう。だが、ここまで書いても『海外の方が良くて、日本はダメ』ともいう人がいるから、そのような人には何も言うことは無い。

日本は天国であり、海外に比べて遥かに住みやすく生きやすい

 オーストラリアに移住したとき、出会う人たちの殆どは口を揃えて『日本は素晴らしい国だ』と私に言ってきた。リテラシーの高い人は日本独自の慣習とか謎の文化について疑問を抱いていたが、他の国に比べれば遥かにマシだと考えていた。
 四季があり、他人を思いやり調和を重んじ、交通インフラは最高水準で、24時間のコンビニもあり、酒を飲んだ後でもしじみ汁を飲んで癒されることができる日本という国のどこが、世界に比べて劣っているというのだろうか。私は日本という国が先進国という肩書きに甘んじることなく、素晴らしい環境を保ち続けているということに感謝しかない。オーストラリアに一年間住んでみて、改めて日本のすばらしさを実感したのである。オーストラリアのお試し恋愛期間を終えてもなお、私は日本が好きだ。単に私が一途ということに尽きるかもしれないが。
 言語の壁だって、母国語ではない英語ではなかなか深いところまで理解し合うのに時間がかかる。フィーリングだけで会話をしている気さえするのだ。それでもきちんと日本語の母語話者である私は、日本語で物事を考えて日本人とコミュニケーションを取ることの尊さを実感している。
 ヴィトゲンシュタインは言語の限界がすなわち私の世界の限界である、みたいなことを言っているが、日本語はどこまでも日本語話者の世界を拡張させると信じている。それゆえに苦しむ人もいるかもしれないが、苦しめるということもまた、日本語の良さではないかと思うのである。特に日本語は曖昧な表現が多いと言われる。この曖昧さこそ、他の国には無い素晴らしき利点ではないか。この曖昧さを絶妙に理解できる能力がある日本人の能力の高さを称賛した方が良いのではなかろうか。
 オーストラリアにも確かに魅力はある。だが、住むにはやはり日本が天国である。これはどこまでいっても個人の主観によるだろう。言ってしまえば生き方はその人次第なのだが、日本を批判する人たちには言ってあげたい。
 海外で体験できること、海外で良いなと思ったことは日本でも体験できる。むしろ日本にあって海外に無いものを見つけたいなら、海外に行って探してみてごらん、と。

 長年連れ添った恋人を批判したくなる気持ちもわかる。だが、紛れもなくあなたの母語は日本語であり、両親の愛を受けて日本で育ったのだから、批判をするのではなくて、日本を愛でてみてはどうだろうか。きっと、あなたがそれまで気づかなかった日本の良さを発見するだろう。
 私はそれを願って、この記事を終える。

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