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ドイツ漫遊記17~レジデンツは絶対に行け~


「見て、飛べる建物を作りたいんだ。金は厭わない。どれだけかかってもいいんだ。見て、飛べる建物を作ってくれ」

峯岸達夫『ドイツ漫遊記より、サイケデリック大工』

日曜日はのんびり?

 ヨーロッパでは日曜日は基本的にどこの店も閉まるので、前日から食料品を買いだめして、のんびり過ごそうかと考えていた。ところが、やはりせっかくのヨーロッパに来ていて、ただただぼんやり過ごす気にもなれなかった。同室の人々は、一日中ベッドでスマホを見ていても平気な様子だった。天気も悪く寒いうえに、店も閉まっているとなれば仕方のないことだと思う。だが、私は遠く日本からやってきていて、次にいつ来れるか気分次第であるから、見れるものがあるならば見ておこうと思ったのである。
 とりあえず、トラムに適当に乗ってめぼしいものを見つけたら降りようかと思っていたら、レジデンツなる建物を発見し降りてみた。
 チケット売り場に行くと、レジデンツ内部、宝物庫、市民映画館の三つを見れて20ユーロだという。欲張りだからそれを買った。後になって思ったことだが、レジデンツだけを真剣に見るだけでも一日が終わるので、それだけのチケットでも十分だった。

豪華絢爛、金尽くしのレジデンツ

 超金持ちによる、贅の限りを尽くした建物とあって、やはり目を見張るのは金をたっぷり使った装飾であろう。部屋に入った瞬間に全身の血が金色にでもなったかのように、部屋中を這うような金装飾が施された室内が全身を焼き尽くさんばかりに襲ってくるのである。金持ちの美的センスというのは私にはなかなか受け入れがたいものがあるが、そんな受け入れがたい気持ちすらも思いっきり飲み込んで「どうだ、凄いだろう」という雰囲気で圧倒的に押しつぶされるのである。フランス革命が起こる理由が何となく分かる気がしたのである。ボロい小屋のような家に住んでいる人達が、同時代にこんなキンキラキンに全くさりげもなく、むしろ開けっ広げに豪華絢爛な装飾を施した場所で暮らしているのだから、腹が立たないわけもないと同情したりするのである。圧倒的に庶民の感覚からはズレているようなド迫力、胃もたれしそうなほどの贅沢な芸術が部屋を覆いつくしているのである。
 一言申しておくとするならば、私は別に金を使った豪華な装飾が嫌いというわけではない。それはそれで良いと思うのである。ただ、私が好むのは水墨画のような、墨で生み出された芸術であって、キンキラキンの目がチカチカするような芸術ではない。
 ある意味では、グロテスクなほどに見栄っ張りな金持ちの権力誇示とも受け取られるような、高い材料で作ったこと、素材の価値を押し出すかのような、物欲の熱量を感じるのである。やはり金持ちになったりバブリーな時代が到来すると、人々はどうしても物の価値、豪華さに目が行くのだろうか。
 日本もかつては、高級車を乗り回したり、超高層マンションに住んだり、着るものは高級ブランドで固めるというような、物質的な価値に重点を置いた人達をいわゆる金持ちとしてきた。ところが、それよりも遥かに金持ちとなった人々を見ると、想像以上に質素な暮らしをしていることに気づく。そう考えると、中世ヨーロッパでは物質的な価値に重点を置く金持ちがその時代の限界点であったと言える。現代では物質的な価値よりも精神的な価値に重点が移ったのかもしれない。そして、それをどの国よりも早く実践していたのは、日本ではなかっただろうか。
 ドイツの頂点とも呼ぶべき中世の金持ちの贅尽くしと、日本の江戸時代の人々の贅尽くしを見ると、どちらも金は共通している。それでも、日本における金尽くしの方が、どこかシンプルで凝っていない。私はその点が良いなと思うのである。いわゆる秀吉が作らせた黄金の茶室と、レジデンツを見比べてみると、当然ながらレジデンツは規模の面で秀吉の時代とは比べ物にはならないにしても、どこか私自身の美的センスとはかけ離れたものだな、と思うのである。
 ナポレオンが世界を征服しようと動いたように、ヨーロッパの金持ち、貴族の心の中には、どこか贅沢を誇示したいという見栄っ張りな気持ちがあるように感じられるのだ。もしも日本がそれと同じであったら、金閣寺のみならず様々な場所に金を施した建物が出来上がっていただろう。だが、そうならないのは日本人の性質、宗教観というものが関係していたのではないかと考えるのである。
 さて、だらだらととりとめもなく書いたが、言いたいことは単純である。私は日本の江戸時代の金持ちの美的センスの方を好むというだけだ。とはいえば、やはりレジデンツのような建物はヨーロッパにしかなく、それを知って改めて、日本の方が好みだなと結論付けた次第である。

音声ガイドにダレ始め、後半は雑に見る

 最初の方はじっくり立ち止まって一つ一つ音声ガイドを聞きながら鑑賞していたのだが、あっという間に時間が過ぎていくことと、途方もないほどに見るところがあるということに気づき、後半は駆け足で鑑賞した。前半であまりにもゆっくり鑑賞しているので、係のおばさんが心配して色々と話しかけてくれたのだが、なんとなく急かされている気持ちになって、それからはぱっぱと見るようにした。私以外の観光客があまりにも秒で去っていくのでおかしいとは思っていたのだ。ぱっと見て「あ、豪華だね。はい、次」くらいのペースで見ないとレジデンツを見終えるまでには5時間以上はかかるであろう。
 ぱっぱと写真を撮りながらも、凄まじい装飾に圧倒された。私の気持ちとしては、絶対にこの建物の装飾を担当した人間は何かしらのドラッグをやっていたと思う。そうでなければ説明が付かないほど、サイケデリックな雰囲気が感じられるのである。寝室などを見ても「お前、本当にこんなキラキラの中で眠れるのか?」と思うのである。目を閉じても瞼の裏に鬱陶しいほどに金キラの装飾が残像としてあるのだから、ヨーロッパの貴族の感覚というのは一体どんなものだったのだろうと思うのである。
 考えてみればテレビも無い時代だから、気晴らしに装飾を眺めては「あ、あんなところに天使~」とかやっていたのだろうか。壁に掛けられたタペストリーなどを見ても、どこか部屋にポスターを張っている少年と変わりはないような気がしたのである。
 要するに、気を紛らわすためのものなのだろうと思う。今よりも遥かに娯楽は少なかったのだから、そうなる気持ちもわかる。飽きないための工夫としての豪華絢爛な装飾だと思えば理解できる気がする。テレビもラジオもインターネットも無い時代に部屋がシンプルだったら、それは確かにつまらないかもしれないと思った。だから日本でも屏風に絵を描いたり、様々に飽きない工夫を芸術の力を借りて行っていたのかもしれない。

宝物庫でお腹いっぱいになる

 散々キンキラの部屋を見た後で様々な宝物を見ても、「あ、なんか綺麗で高そう」くらいの処理しかできなくなる。すっかりレジデンツ内の鑑賞で体力と集中力を奪われた私は、さらさらっと宝物を見て建物を後にした。ご丁寧に、宝物一つ一つに音声ガイドが付いていたのが、もはや聞く気にもなれず、どうせ聞いても全部覚えられませんわ、ということで足早にその場を去った。ぱしぱしっと写真を撮って宝物庫を出た後、市民映画館に入った。

市民映画館でもお腹いっぱい

 すっかり感覚は貴族になっていて、市民映画館を見ても「はー、なんかすごい」くらいの感想である。贅の限りを尽くした装飾を見続けると、脳がバグると知った。きっとあのような装飾は何日も何日も、時間をかけてゆっくりと眺めていくものなのだろう。そのために、あれほどに大量の芸術が至る所にあるのだ。それを一日で全部消化しようとしたのだから、バグるのも当然と言えるだろう。
 市民映画館で男女二人組の演奏を聴き、そそくさとその場を後にした。

レジデンツで十分

 のんびりする筈の日曜日が思わぬ形でお腹いっぱいになった。感覚が狂って高いものでも買ってしまいそうな勢いだった。「こんな高価なものも、あいつらに比べれば微々たるものか」とか思いながら、お土産を買ってしまいそうになり、慌てて商品を元の棚に戻してその場を去った。
 考えてみるに、物欲というのは厄介である。私の場合は楽器にそれが顕著で、良い楽器だなと思ったら無理をしてでも買ってしまう。これが良くないのだ。物欲というのは、強ければ強いほど人を悩ませる。逆に言えば、その欲が強い人ほど「あれを買うためには、どう稼げばいいか」と考えるから、金持ちになれる確率は高いだろう。
 幸いにして、私の物欲は楽器のみだから抑えられている。コスパの良い性格で良かったと思う。これがもっと「高級車に乗りたい」とか「高いところに住みたい」とかいう話になってくると、もっと苦しい人生を送っているだろう。
 とはいえ、ヨーロッパの貴族のような家に住みたいかと言われると答えはノーである。あんなに広いと掃除が大変であるし、何か盗まれても気づかないだろうと思った。あんなデカい家に住むことに意味があるとも思えなかった。結局は、四畳半くらいがちょうどいいのかもしれない。

 さて、ミュンヘンに来たらレジデンツは一見の価値ありである。自分の美的センスに気づくという点においても価値があるし、当時の金持ちがどういうところに金を使い、何にこだわったかということも知れる。良くも悪くも、一度見ておくことは大切な気がするのだ。
 そんなわけで、私は眠るときにチカチカしながらもなんとか眠った。きっと貴族も同じだったに違いない。

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