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君が好きだと叫びたい【レズパコ#11】

【前回のお話】
#10 ただのしかばねのようだ

「レズパコ恐怖症じゃな」

 かけてもいない眼鏡をくいっと上げるポーズをしながら、のんがのたまう。私は体操着に着替え、濡れた制服を物干しラックのハンガーに吊るしていた。

「それもかなりの重症じゃ。このまま放置すれば命に関わるぞよ」

「治るんですか、先生?」

「詳しく検査せんとなんとも言えんが、多少の荒療治は必要じゃの」

 言いながらのんがスカートを脱ぐ。私は壁の埋込式の書架に目をやった。背伸びをしてようやく届く最上段まで、ぎっしりと漫画が詰め込まれている。たとえ毎日この部屋に通ったとしても、卒業までに読みきれるかどうか怪しい。この膨大な蔵書こそが、彼女の即興劇の源なのだろう。

 のんの下着姿など何度も目にしている。だからシャツのボタンを一つ一つ外していく姿が視界の隅に入っていても、どうということはない。机に置かれた鏡の角度が絶妙で、水色の薄いショーツに覆われたのんの尻が見えていたとしても、動揺したりしない。

 ハンガーに伸びてきた白い腕に、ぎくりと肩を震わせる。単に濡れた制服を干そうとしているだけなのに、ヘビを見た猿みたいに露骨に反応してしまった。

「こりゃ重症じゃのう」

 なにをこのヤブ医者が。と振り向いてしまいたいのに、鏡に映る水色を盗み見ているだけで、私の心臓は飛び跳ねた。

 この窮地を切り抜けるうまい返しはないものかと背を向けたまま考えあぐねていると、肩にぱさっと何かがかかった。ミルキーな香りが濃く鼻を突く。ショーツと違って白色だったので、すぐにそれがブラジャーだとはわからなかった。思わず手に取り、タオルと間違えて危うく匂いを嗅ぐ寸前で、慌てて投げ捨てた。人のことは言えないが、上下の色くらい揃えたらどうだ。

 視界の隅、鏡の中で水色の下着に指がかかる。馬乗りでマスクをずらしていたのんを見たときよりも強い気持ちで、ストップ、ストップと心の中で叫んだ。声を出せない代わりに、きつく目をつむる。

 さすがに下着は肩にかけたり頭にかぶせたりはしてこなかった。ただ足元に、ふわっと柔らかな布が落ちたのを感じた。

 なにを試されているのかは明白だ。ここで振り向くことができなければ、私はレズの烙印を押されてしまう。友の裸に欲情する女だと思われてしまう。これまでのスキンシップすらすべて、よこしまなセクハラだったのかと誤解されてしまう。

「道の駅の仕事の件なんだけどさ」

 のんが唐突に話題を変える。

「旅館のほうの人手が足りないみたいだから、兼業になっちゃってもいいかな」

「えっ、なに?」

「あとごめん。弁当出るって言ったけど、派遣じゃなくて直接雇用だから、注文するなら一食三百円かかるってさ。まあ、レストランのまかないとか、道の駅の廃棄とかもらえばなんとかなるとは思うんだけど」

「あ、うん」

「それと、給料出るの働いた翌月なんだよね。前借りできないみたいでさ。だから夏休み中に旅行は無理かも」

「そっか、ふーん」

 まったく話が入ってこないが、なんとか相槌を打てているだけで自分を褒めてやりたい。のんの声の響きからおおよその距離を測る。漂ってくる甘い匂いは、下着爆弾のせいかやけに近くに感じるのであてにならない。のんが後ろでなにかしている気配はするが、それすら緊張で敏感になった私の神経がもたらす錯覚かもしれない。

「まあ、寮はオーケーだったから、毎日が修学旅行みたいなもんだよ」

 一歩分、声が近づく。もともと手を伸ばせば届くくらいの距離だったのが、いまや背後から抱きしめられるほどに近い。

「朝から晩まで一緒だし、ビッグバンアタックの練習も思う存分――」

 腰を両手で掴まれて、私は思わず飛び退いた。勢いで振り返ってしまう。そこには生まれたままの姿ののんが……と思いきや、いつのまにか部屋着を着ていた。色気もクソもない擦り切れた紺のスウェットだ。

 不満げな垂れ目に気圧されつつも、そこは毅然と睨み返す。

「やめてよ、急に」

「急にやるから面白いんでしょ」

「もうとっくにブーム終わってるし」

「誰かさんが打ち合わせ通りやってくれれば、再燃したかもしんないのに」

「誰かさんって?」

「れお以外にいる?」

「タカナシとか」

「タカナシはふつーに協力してくれてたじゃん」

「でも、あいつ、いきなり人工呼吸って」

「人工呼吸も心臓マッサージも変わんないでしょ。まったく、これだかられおは」

 やれやれと両手のひらを上げる外国人風ジェスチャーに、悔しいがなにも言い返せない。そもそも心臓マッサージだって、騎乗位だって、本番前に相当な覚悟をしていたのに。あのままのんに人工呼吸されていたら、私の肺も心臓も破裂していたに違いない。

「そういえば、りちゃこだってあれだよ。私と言い争うとこで変顔してたし。下手な芝居で危うく台無しになるとこだったし」

「そのへんはうまくカバーできてたじゃん」

「けど、それに、のんだって、その……とにかく私だけだよ、ちゃんと台本通りにやってたの。みんなアドリブ入れすぎ」

「そういうもんでしょ。聞いてた話と違う、なんていちいち文句言ってたら、この先やっていけないよ。もっと社会人としての自覚を持ってもらわないと」

「いや、まだ学生だし」

 弁明が口論に変わる直前で、ツッコミどころを用意してくれる。これだから私はのんのことが好きなのだ。もちろん友達として。床に落ちた下着や、少し先端の尖ったスウェットの胸を見て抱くこの感情は、台本のどこにも書かれていない。

 のんがソファに腰を下ろし、ぽんぽんと隣を叩く。部屋が広くてうらやましいといつも思っているのに、今日はなんだか窮屈に感じる。そのうえ二人がけのソファに並んで座ろうものなら、酸素が足りなくて窒息してしまうかもしれない。

 棒立ちのままの私を見上げて、のんがため息をつく。豪雨か、電車か、海鳴りか、カーテンの向こうからかすかに低い轟が聞こえる。室内はクーラーが効いているのに、髪のしずくでも垂れたのか、背中を冷たいものが伝う。私は裸足のつま先を見つめた。

「なるほど、こんな気持だったのか」

 のんがおもむろに口を開いた。

「最初のころ、私ぜんぜん喋んなかったじゃん。れおがちょっかいかけてきても全部スルーで。よく心折れなかったね」

「うん。まあ。べつに」

 あのころはただのんを笑わせたい一心だった。だから頑張れた。こんな感情を抱えたままのんに冷たく拒絶されたら、もう立ち直れないかもしれない。かといって、受け入れられても困る。なんの覚悟もないまま波にのまれて、沖にさらわれて、寄る辺ない大海原に投げ出されてしまったら、私は途方に暮れてしまう。たとえ一人ぼっちでも、のんと二人きりでも、あまりの心細さに不安になって、きっと笑い方さえ忘れてしまう。

「ねえ、覚えてる? 私たちが仲良くなったきっかけ」

「もちろん覚えてるけど」

「ほんとに?」

「あれでしょ。帰りの駅で私がプリキュアの替え歌うたってて、それをのんが後ろで聞いてて」

「えっ? ……あー、あったねそんなことも。ぷりっケツだっけ。懐かしー」

「きっかけってそれじゃないの?」

「やだよそんなきっかけ」

「やだって言わないでよ。あのとき初めてのんが笑ってくれたから、ようやく打ち解けられたと思って嬉しかったのに」

「そう? そのときにはもう仲良くなってた感覚だったから、ごめん。そっか、私そんなに無表情だったか。そりゃあクラスからも浮くわけだ」

「じゃあ、のんにとってのきっかけってなに? それ以前になんかあったっけ?」

「ほら、やっぱり覚えてない。あんなことしておいて。これだかられおは」

「いいから教えて」

「あれは今から三十六万、いや、一万四千年前だったか。まあいい。私にとってはつい昨日の出来事だが――」

「また始まった。これだからのんは」

 長ったらしい詠唱を途中でさえぎり、ふっと笑みを見交わす。元ネタのエルシャダイだって、のんと仲良くならなければ永久に知ることはなかった。あのころは一緒にベッドに寝そべって動画を見ていても、ただただ純粋に楽しく笑っていられたのに。いったいどこで間違えてしまったのか。

「で、私たちが仲良くなったきっかけは?」

「れおが私のお尻を叩いたからだよ」

「は?」

「それにおっぱいも揉んできた」

 てっきり比喩的な意味かと思ったが、どうやらそのままの意味らしい。どこで間違えたもなにも、最初からおかしい。のんがふたたびソファを叩いて呼んだので、混乱した私は吸い寄せられるように隣りに座った。

「誤解してるみたいだから言っておくけど、私はれおにもっと触ってほしいんだよ。嫌がってるふりをするのは、そういうノリじゃん。なのにれお、最近ぜんぜん触ってこないから、なんか物足りなくて」

 このやり取りにも、なにか元ネタがあったりするのだろうか。それを私が知らないだけで、どこかのタイミングで笑い飛ばしたりツッコんだりするべきなのだろうか。

「ビッグバンアタックされたとき、私ビビッときたんだよね。これだ、って。私が求めていたのはこれなんだって」

 握りしめた拳を見つめて熱弁するのんは、まるで長い修業の果てに確信をつかんだ少年漫画の主人公のように目を輝かせている。

「なのにれおときたら、期待させるだけさせておいて勝手に日和ってさ。童貞こじらせたなろうのヘタレかっての。レズパコ禁止とか、なにそれ。意味わかんない」

 のんが体当りするように肩を寄せてくる。逃げるとそのまま押し倒されそうで、私はぐっと背筋を伸ばして持ちこたえた。

「バカの考え休むに似たりだよ。いいじゃん。気持ちよければなんでも」

 ネタばらしするなら早くしてほしい。ドッキリでしたと言ってほしい。冗談でしたと笑ってくれれば、いまならまだ笑える。のんが壊れてしまうより先に、このままだと私の理性が壊れてしまう。そしたら私はのんを壊して、海を閉じ込めたガラスの球を粉々にしてしまう。きらきら光る破片は海底に沈み、二度と浮かび上がることはない。波打ち際のたわんだロープの抜け殻に、二度ときらめきは戻らない。

「アリダとスドウの噂知ってる? あのふたり、いま付き合ってるんだって。教室でも最近くっついてるでしょ。キスしてたとか裸で抱き合ってたとか、あちこちで目撃されてるし。タカナシにその気がないから、お互いに慰めあってるだけとか、普通にガチレズだとか、実際のとこは本人たちにしかわかんないけどさ。でもきっと、レズパコしまくってるよいまごろ。今日も手繋いで帰ってたし」

「笑えないよ」

 私のつぶやきに、のんが黙り込む。

「笑えない」

 寄りかかってくる肩を押しやり、ソファから立ち上がる。スウェット越しの肌の柔らかさに、そのまま押し倒してしまいたい衝動がこみ上げてきて悲しくなった。

 体操着のまま部屋を出ようとする私のすそを、のんがつかんで引き止める。

「なんてね、冗談でしたー」

 さっき言ってほしかった言葉が、いまさら私を呼び止める。振り返ると、にやりと持ち上げられていた口角が下がり、細められていた目尻から涙がこぼれた。

「冗談だよ、バカ」

「うん、知ってた」

「だから行かないでよ、れお。全部ウソだから。もう触ったりしないから」

「トイレだよ。すぐ戻るから」

 すそをつかんでいた手に触れて、離す。のんの手の甲はガラスのように冷たくて、いつまでも触れていたかったのに。

 部屋を出ると私はそのまま階段を降り、裸足のまま玄関のドアを開けた。軒下ではじけた雨粒が、冷たくすねに降りかかる。濡れた地面に踏み出し、スコールを頭から浴びると、意外と温かくてじんときた。

 道の駅に向けて歩き出す。追い越してゆく車のテールランプが雨に滲む。少し先に白い清潔な建物の明かりが見えてくると、私は車道を渡り、踏切を超え、海に向かった。冷たいコンクリートを歩いてきた素足を、濡れた砂浜が優しく迎えた。

「うあああああーっ!」

 叫び声は波と雨にかき消された。

「のぉーん! のん、のん、のぉーんっ!」

 大きく開けた口に雨が飛び込んでくる。

「私だって触りたい! っていうか私のほうが触りたい! のんのお尻も! おっぱいも! 唇も! 手も足もほっぺも全部!」

 海はなにも答えてくれない。私の本気の冗談を、素知らぬ顔で聞き流している。まるで生まれてから一度も笑ったことがないみたいに。

「のんと笑いながらレズパコしたーい!」

「私もぉーっ!」

 なにを叫ぶか決めないまま吸い込んだ息を止め、ぎょっと線路を振り返る。びしょ濡れのスウェットをまとわりつかせたのんが、裸足で砂浜を駆けてくる。

「安西先生! レズパコがしたいです!」

 スラムダンクの名場面を再現するためか、私の前まで来ると膝をついて泣き叫んだ。なんてバカなんだろう。なんて愛おしいんだろう。誰が安西先生だ。そもそもレズパコってなんなんだ。私は膝から崩れ落ち、爆笑しながらのんにもたれかかった。

 私たちの笑い声をかき消したのは、波でも雨でも雷でもなかった。そして人工呼吸でもない。くっついた心臓の音がうるさくて、だからなにも聞こえないんだと、私たちは知っていた。すべて壊して、すべてが始まる。ビッグバンはまるで耳鳴りのように静かな永遠を鳴らしていた。

【次回のお話】
#12 雨の岩屋戸で


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