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愛しあう『彼女』たちの逃避行

Netflixで『彼女』という映画を観て、hontoで原作の中村珍『羣青』(ぐんじょう)という漫画を読んだ。

愛しあう女二人が殺人を犯し、逃避行するという物語。

原作と映画のあいだには、段差があった。
原作と映画がちがうのは当たり前なのだが、せめて、私が目を留めた違和感くらいは、言葉にしておきたいと思う。

映画そのものは、淡々と感情を描いているのにテンポが良く、映像が美しく、良い作品だと思った。

それでも、躓きの石は、どれだけ砂を撒いて滑らかに隠しても、どうしても浮かび上がってくる。
そこまで整然と歩いていた足がもつれて転びそうになることで、段差は際立ち、それまで見ていたものとは、別の存在の可能性を、うっすらと指し示す。

『羣青』の表紙の水彩画の顔は、皮と、皺と、筋肉と、肉と、血が躍動している。
原作は表紙の通り、身体と知性と年月と煩悶を持つ人間を描いているのに対し、映画の登場人物は、絵になる景色に、綺麗にまとまっていた。

その綺麗なまとまりからは、「考える女」と「対話する女」が、林檎の皮を剝くように削ぎ落とされていたように思う。

その替わりに、刹那的で破滅的で、裕福で気まぐれで、不幸で身勝手で、脆く儚く美しくあやうい二人の女の首が、挿げられていた。

あの才気あふれる俳優たちなら、「考える女」を演じることが出来ただろう。
原作には男は殆ど出てこない。出てきても有益なことを喋らない。喋っても、典型的な台詞しか述べさせてはもらえない。
映画には男の存在や男との性描写が、忘れてもらっては困りますよ、というように顔を出す。
女の深刻さや動機を薄めるような職業や情景のすり替えがあり、場面場面から重みが外されている。
私にはそう思えてならなかった。

「考える女」は、それほどに薄めないと、受け入れられないのだろうか。

映画の女たちは、髪をなびかせて外車に乗り、ファストフードの防犯カメラに無防備な会話を晒し、高級別荘地の湖のほとりの芝生の上でマットに寝そべったりするが。

原作の女たちは、もっと忙しい。
雨に濡れ、雨宿りする場所さえなく、徒歩で逃げ、背負い背負われ、安宿で眠り、誰の金で買った弁当なのか、施しを受けたくないという意気地を見せ、理解し合ってはまた揉めている。

逃避行の目的は、二人が対話をすることだ。
お喋りでもない、会話でもない、討論でさえある、対話をすること。
十年間、封印していた自己への省察や、相手への熟慮を交換し合うこと。
魂の交歓、対話。

いや、それを人を殺す前にやれよ、とつくづく思う。
だが、人を殺し、逃亡するという舞台装置が整わないと、対話する空気にはならなかったのだとも思う。
そうまでしなければ、対話に踏み切れない女二人の、口の重さがリアルである。

女の口が重いこと、そこまでしなければ、語りだせないこと。
女は生存戦略としての情報交換の「お喋り」を獲得して、代わりに、深く語り合う「言葉」を失ったのかもしれない。
そういう気づきさえ、与えられた。

本当に、漫画は文学だと思う。
文学が、人間の本質を描くものなら、文学賞が、ボブ・ディランに贈与されるものなら、この漫画は文学だと私は思う。
人間の本質に迫る表現を考えさせられる作品だった。

不器用にしか現実にぶつかれない人間を見るとき、
「最も苦しんでいる人間は、言葉を持たない。」と言った、哲学者の言葉が、いつも私の頭の中を巡る。

労働で搾取され切った人間は疲れ果てていて「あれ、搾取されているぞ、おかしいな、基本的な人権を抑圧されているなんて、こんなことは到底許容できない、訴えてやる!」と、言うことが出来ない。
生きていることで精一杯の時に、人間は、論理的な説明が出来ない。

また、本当にそういう主張が必要な人間に限って、論理的な説明の訓練を受けていない可能性がある。
たとえ、受けていたとしても、弱さや辛さを表現することはみっともないという強い呪縛を受けているかもしれず、数学や美術のほうが得意で語彙は苦手かもしれず、そもそも、弱みを見せたら即座に襲われる危険がある過酷な環境に置かれているかもしれない。

人間の本質に触れることを、「考え」、「読み」、「書き」、「話す」ことは、それほどに実現が難しい。
日常生活で、考え、読み、書き、話すこととは、一線を画している。
だから、境界線を行きつ戻りつしながら、言葉を探さなくてはならない。

苦しんでいる人間が言葉を持たないのは、ただでさえ苦しいのに、そんな面倒な往来をするのは、苦行以外の何物でもないからだ。

それでも、その人間たちを語りうる言葉を、その人間たちが増やしていかなければならない。
言語でなくても、芸術の発露でも、不得意でも、たどたどしくても、少なくてもいい。
自分で自分の本音をわかる人間を増やすことが重要なのだ。

また、別のある哲学者の言葉。
「女性の地位は低い。物語がない。言葉がない。まだ、語られていないのだから当然だ。」というような主旨の発言で、ファンだった私は大変ショックを受けた。
だが、だからこその現状なのだ。
むしろ、フェミニズムの論客に総バッシングを受ける覚悟で発言をしてくれたことに、感謝したいと今は思う。
女性については、無数に語られてきているし、血の滲むような努力が続けられているけれど、それでも、まだ、現状は、ジェンダーによって、自分の望む地点から退けられる人間が一定数いる。
だから、物語を、言葉を、増やし続けるしかない。
現状維持をしないつもりなら、自分たちの口で、語り続けるしかない。

するりと、映画では削ぎ落とされていた「考える女」たちの対話を読んで、私はそういう考えを、再認識した。
(哲学者については、いずれ稿を改めて、きちんと書こうと思います。)

こうやって、見えていなかったものを、見せてくれるから、私はジェンダーに関する作品に興味がある。

今までにnoteで書いた、ジェンダーに関するいくつかの原稿には、あまり「いいね」は付かないけれど、不思議と、読んでもらっている数字が、定期的に上がってくる。
おそらく、関心はあるけれど、こっそり読んでいるのではないかと、推測している。(私の文章に魅力が少ないという点はさておき。)
私もいくつかのジャンルで、そういう読者になることがあるから、その気持ちが分かるような気がする。
「ポリティカル・コレクトネスやコンプライアンス的に、こう言わなきゃ面倒なのでしょう、そういうのにうるさそうだしね、あなたは」と屈託なく微笑んでくれる老若男女に囲まれて、私は生きているので、自分で自分がもどかしいけれど、そういう読者でいたいときがある。
常に正直に、というのも一つの呪縛だから、それはそれで、良いのだろうと思う。
ただ、やはり、このような硬い内容に、いいねを貰えると、耳を傾けてくださる方が居るのだと、勇気づけられる。
勇気づける側に、自分もいつか、回りたいと思う。

書きたかったから書いて、読みたかったから読めればいい。
自分の中の表現の選択肢を、増やし続けることが重要なのだ。

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泥臭い、たどたどしい文章を、ここまで読んでくださってありがとうございます。

最期に漫画で印象に残った台詞を紹介します。

作者あとがきより。タイトルを、群青ではなく『羣青』とした意図について。作品の隅々まで血管が通って、皮膚のような温度があることに、納得させられる一言でした。

君の横に少し離れて並べれば(“群”)重く苦しい思いをせずに済みそうなものを
重く圧し掛かる“君”を華奢な足で支える『羣』の姿が
少し気に入っています

本文より。代理殺人をした女が、教唆した女に言う。

あーたをかわいそーって思わないのは、
あーたの辛かったこと切り捨てんのと
何が違うの・・・。


「かわいそう」は作中を貫くテーマでした。
「かわいそう」と「同情」。地獄の底で自分の意気地だけを頼りに生きている人間が、「かわいそう」とどう向き合うのか。愛してしまった人間が、愛する人間の致命傷を見ながら「かわいそう」とどう向き合うのか。
「かわいそう」は本当に難しい。

本文より。教唆した女が、ようやくモノローグできた言葉。

子供の頃から、
親にも、夫にも、
彼氏や友達にも、
誰にも頼めないまま
ずっと困ってたことが
あるんだけど、
聞いて貰えない?
30年、黙っていたことだから、できれば誰にも言わないでね。

脳内で言える、自分に言える、自分で言える。
言語化できる脳の表層まで、掻き消され、消え入り続けてきた心の声を浮かび上がらせることが出来た。
それは、一つの到達点であり、偉業である。

noteでお薦めされていて、面白そうだなと思ったから、出会うことが出来たものについてnoteに書くことが出来て、良い循環を体験できました。
長文型SNSや、ネット動画配信や、電子書籍の世の中でなければ、考えることが出来なかった文章を書けて、良かったです。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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