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人間の眼には「差別」が見えない

「差別を差別として認識しない(できない)私たちに、いかに差別を認めさせるか。
これが反差別的な言説や運動が持たざるをえない困難だった。
しかし、その困難ゆえに、反差別闘争とは、新しい差別を発見する/発見させるという、すぐれて創造的な行為ともなる。
それは、ある意味で、私たちの日常の生活や風景を「異化」させる行為でもある。
「異化」とはある出来事から「既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすこと」だからである。」
綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』


異化すること。
同化していたものを引き剝がし、異化することは、大抵、苦痛を伴う。
その上、引き剥がしたものは差別という誰かの痛みであり、自分の平凡だと信じていた日常の中に、不穏なものが隠されていたことを知らされて、少なからずショックを受ける。

だから、差別について考えることは、敬遠される。
差別を受けたときが最も激しいのは勿論だが、見かけても、見過ごしても、気が付かずに差別をしてしまっても、意図的に差別をしても、どの立場にあったとしても、必ず何らかの衝撃を受ける。

だから、正直に本音を言えば、「私は関係ない、私はそういうことを気にしていない、私は一線を画している、私は忙しい、そういうのがお好きな方々でどうぞお好きに」等々と斜に構えるほうが、楽なのだと思う。

それでも、私は、差別について考えたい、知りたいと思う。
なぜなら、それについて考えてみなければ、いつか、自分や自分の大切な人間が、差別という人間の業に、巻き込まれる確率を、減らすことができないから。

綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』は、感情がわだかまり、考えが錯綜する「差別」について整理する思考方法を提示してくれる。

それは、差別をグラデーションで考えるということだと、私は受け止めた。
アイデンティティとシティズンシップの濃淡。
気づきと過失の明暗。
それらの光と色で作ったステンドグラスの下に、見慣れたものを翳して、
異化することで、何が見えるのか。

それを考えていくことが、今後、「差別」についての、自分の考え方の一つの指針となると思う。


アイデンティティとシティズンシップ
①アイデンティティ(個人性)

差別を語る方法が、二つあるという。
アイデンティティから語るか、シティズンシップとして語るか。

今までは、「アイデンティティ」(個人性)として差別を語っていた。
足を踏まれた者しか、踏まれた痛みが分からない。だから、痛みについて語ることができるのは、踏まれた本人だけだった。

しかし、これでは、差別をなくす運動は、大きくなれない。
「あなたには、このアイデンティティがない。だから、どうせ、あなたには何も分からない」。
そうやって切り捨ててしまえば、「相手の身になって考える」ことを相手に習得してもらうことができない。

傷つけられた衝撃と痛み。
「この苦痛がおまえに分かってたまるか」という憤怒もあるだろう。
それでも。
論理的思考に、生々しい体験の記憶を差し出すことでしか、他人に伝えることは出来ない。
他人は、言葉で切り取られた上辺しか、分かることはできない。

この当たり前の、上辺しかやり取りできないという覚悟を持つことが、双方にとって必要なのかもしれない。
その絶望的な隔たりの上で、話し合う覚悟を決めること。

そんなにつらい思いをしてまで、アイデンティティを引き剥がし、傷口を抉ってまで、なぜ、他人に話さなければならないのか。

それは、少しずつでも、意欲のある他人に伝播し、共有することでしか、
状況を改善して、次の犠牲者が出ることを防ぐことが、出来ないから。

辛い体験を思い出して、更には言葉にするということは、辛い体験と同等かそれ以上に辛い。しかも、その辛い体験を、教育や心理や医療の有資格者たちでさえ、再び傷つけることなく、聴き留めてくれるとは限らない。

それでも。

論理的に開かれていくことでしか、足を踏まれた当人たちの望む「足を踏まれない社会」は到来しえない。

アイデンティティとシティズンシップ
②シティズンシップ(市民性)

また一方で、差別問題は「シティズンシップ」(市民性)でも、語られるように変化した。
「差別は問題だと考える市民」であれば、差別について語る資格があるとみなすアプローチである。
これによって、アイデンティティを持たない人間でも、その差別について心を痛めていれば、考え、発言することが出来るようになった。

第三者が、問題を考えるときには、論理的な思考を使う。しかし、この便利な論理的思考という道具には、忘れられがちな、重大な欠点がある。

もともと、論理というものは、基本的には、冷たいものだ。
核ミサイルのボタンが近くにあり、押す力があれば、合理的に考えて、論理的に、押すことは可能だ。
だが、それと、ボタンを押すのが善いことかどうかは、全く別の問題である。
合理的で論理的であることが、そのまま善いことであるとは限らない。
それを哲学者ヒュームは、「「である/でない」という事実命題から、「べきである/べきでない」という価値命題は導き出せない」という法則で語ったのだと言う。

コストと効率とメリット。
それを最も重視する、市場原理的で、合理的な社会で暮らしていると、忘れてしまいそうになるけれど、冷たい合理性には、本来、人間の体温をもつ倫理や道徳と呼ばれる価値を問う学問が、必要不可欠なのだ。

マッドサイエンティストや、世界大戦や、環境破壊が成立してきたように、論理的思考の独走は、必ずしも善い結果をもたらすとは、限らない。

シティズンシップにもとづけば、第三者が差別を考えやすくなり、社会運動が大きくなりやすい。
だが、その反面、アイデンティティを離れて、当事者を置き去りにした論理は、形式的な論争として拡大しやすくなる。
そして、主義主張がぶつかり合えば、そこに争いが生まれて、炎上する。
さらに、自分は当事者を守っているという正義感、自分は間違っていない、自分は正義だという信念に支えられたとき、論争は、より一層、苛烈になる。

正義に熱中すれば、生身の人間が見えなくなる。
それは、様々な心理実験で証明されている。

1968年、米アイオワ州の小学校でジェーン・エリオット先生が実施した、「青い目と茶色い目」という有名な差別問題の授業がある。
小学生たちは、教師がルールとして提案した青い目と茶色い目の差別を、瞬く間に飲み込み、ゲームのルールを拡大するようにして、差別を自発的に運用し始めたのだ。「悪い目の色の子供にはこんな罰を加えたらよい」と、創造的に意欲的に協調性を発揮して参加したと言う。おそらくは、良い目の色に所属して自動的に懲罰から逃れられる幸運と優越感に浸りながら。

その場のルール、その場の正義は、一瞬で人間を虜にして、目の前の相手の悲しそうな顔でさえも、見えなくしてしまう。

それが、パソコンやスマホの画面越しや、大きな枠組みの主語の威光の下ならば、なおさら、相手の人間性を忘れやすくなってしまう。

人間同士がお互いに名前を呼び合う空間では、お互いに積年の努力や苦渋の決断があり、他人への慈愛や貢献があり、泣き笑う感情があり、大切な家族があることを知り合っていれば発生しないような暴力でも、
記号と論理だけの空間では、歯止めが利かずに、過激になっていくことがある。

最初は、善意のシティズンシップだったものが、炎上を招くことで、新しく、別の問題を生み出してしまう。
正義と不正義、加害者と被害者、復讐する者と復讐される者は、絶えず入れ替わりながら、連鎖していく。


このように、アイデンティティとシティズンシップは、どちらかに偏っても、閉塞してしまう。

だからこそ、そのあいだを、グレーゾーンよりもっと複雑な色合いとして、グラデーションとして、模索しなくてはならないのだと思う。


ポリティカル・コレクトネスとうっかりミス

差別を問題視する側、差別をされた側、差別されたものを支援する側からは、アイデンティティとシティズンシップの両面で、語ることが出来る。

それでは、差別をしてしまった側は、どのように語るのか。

ポリティカル・コレクトネスは、政治的妥当性と訳される。
「差別的な表現に配慮して、中立的な表現を選択する態度」を主に指している。
もともと、急進的で改革的な大学の言論に対して、保守的な伝統を守る派閥が使った言葉だったのだそうだ。

一見すると、「中立的な表現」を選択するのであれば善いことだと、諸手を挙げて賛成しそうにも思えるが、使う立場によって微妙に意味を変化させながら、「片方が片方を批判する文脈」で使われる傾向は、現代でも変わらないと言う。

「ポリ・コレ」という表現には、「あまりにも革新的すぎて、旧来の価値や慣習の意図を汲まずに、ちょっとした表現でも、重箱の隅を突くようにして言葉を取り締まる態度」のように、生真面目さを揶揄するニュアンスが含まれていると私は感じている。

例えば、「看護婦や保母」という言葉を使うと、男性やLGBTQを自認する人間が、その職種に適性があり希望しているのに、将来の夢として目指せない問題が発生してしまう。
未来ある若者の夢を潰していいはずがない。
だから、ポリ・コレは「看護師や保育士」を使用するように提唱する。

だが、しかし、自分が子供の頃に、保母さんに慕わしさを抱き、甘やかな思い出を持っている人間からすれば、どうだろうか。
ホボサンという発話を奪われることは、その人物にとっては、言葉狩りのような締め付けとなる。
ホボサンと自分との思い出、自分の幸福な記憶までが、差別主義者のレッテルを貼られたかのような、苦々しさを覚える。
現在の自分は差別的な意図を含んでいないのに、ましてや幼児の頃の無垢なる自分は知る由もなかったのに、勝手にポリコレが革新した定義のせいで、我と我が身を否定されたように感じてしまう。

これが、苦痛であることは、容易に想像できる。
「たかが、言葉だろう・・・。」
苦々しく、言い捨てたい気持ちも、想像できる。

だからこそ、ポリ・コレはうっとうしいと言われるのではないだろうか。

ある日突然、言い慣れたホボサンという発言で、保育士を目指す青年の心を傷つけた、と責められる。悪意はなかった。ただ、無知だった。恥ずかしい、悪かった。そう思う反面で、そこまで言わなくたっていいだろう、という気持ちがもたげる。青年が保育士を目指しているなんて、どうして、私に分かるだろう。うっかりと言ってしまっただけで、差別主義者にされてしまうなんて。ポリ・コレは、いちいち、目くじらを立て過ぎなのだ・・・。
そういう風に、考える人間もいることだろう。

差別を「足を踏むこと」に例えることにも、含蓄があるのだそうだ。
足を蹴る、足を踏みつけるのであれば、明確な暴力の意図がある。
だが、しかし、「うっかりと踏んでしまった」のだ。

それと知っているのにも関わらず、嘲笑しながら、何度も、故意に繰り返す確信犯と。
過去には気づいていなかった、知らなかったがゆえに、過失を犯した者と。
この両者の間には、深い断崖があるのではないだろうか。

足を踏み、初めて気が付き、自分が傷つけた人間の傷口を見て、青ざめた者は、改心する可能性がある。
その改心の芽を、善意あるポリ・コレが、十把ひとからげに悪意だと断定して摘み取ってしまわないようにすることが必要なのではないだろうか。

うっかりミスという罪を直視する

ただし、「うっかり」という言葉で、他人の傷をなかったことにすることだけは、注意深く避けなくてはならない。

先ほどの保育士の例でも、うっかりと青年に暴言を放った人間が自分で100人目だったらどうだろうか。「昔はホボサンばっかりだったのにね」そんなささやかな棘が100本、彼の胸に刺さった時に、保育士を諦めようと青年が思ったとしたら?それに対して、うっかり口走った”私”に、罪があるのか、ないのか。

うっかりと知らずに踏んだとしても、踏んだ者には、必ず罪と責任がうまれると、私は考える。

傷ついた人間がいたなら、傷つけた人間として、相手の傷と向かい合う。

「弱すぎる、その程度のことで傷つくなんて」と、相手の傷つきやすさや脆さを、決して非難はしない。
さりとて、私刑や罰ゲームのような、過剰で理不尽な損害賠償請求や懲罰は、毅然と拒否する。
そのあいだで、考え続ける。

「過ちを改めざる、これを過ちと言う」。これを念頭に保ちながら、過失と気づきのあいだのグラデーションもまた、模索しなくてはならない。

差別はいけない。とみんな言うけれど。

「みんな」いささか、疲れ果てている。
「みんな」という大きな主語をぼかして、責任を曖昧にしたいほどに、疲れている。

アイデンティティとシティズンシップの違いに翻弄され、
善かれと思って発言しようとした口を手で覆われて屈辱を覚え、
過失と気づきのあいだで、過敏で誠実な人間ほど、罪の意識の増殖に苦しんでいる。
あまりに苦しくなりすぎて、むしろ、自分のほうが被害者だと言いたい。
そんな気分にさえなってしまいそうだ。

そんな状況でも、差別を考え続けるにはどうしたらよいのか。

最後に、差別について考えることで手に入る「宝物」について確認することで、この長い読書感想文を締めくくりたい。


そもそも、なぜ、差別はいけないのか。

差別は「人権」という宝物を、踏みにじる行為だからだ。

「差別」とは、特定の人種、民族、ジェンダー、性的指向、障害、社会的カテゴリー集団に所属する人間を、不当に扱い、尊厳を貶める行為のこと。
人間の尊厳、人権を貶めることが、差別だ。

人間の尊厳は、長い歴史を掛けて、獲得してきた人類の財産だ。
至高の宝物だ。

1215年のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)から800年。
1874年の日本の板垣退助の自由民権運動から150年。
1946年の日本の女性の参政権から75年。

逆に言えば、西暦から数えても、人類で最初に人権を手に入れたグループでさえ、1200年の時間が掛かっている。
宝物として守り始めてから、まだ、800年しか経っていない。
そう考えれば、後続のグループでは、定着までに、もっともっと時間が掛かるのだということにも、頷ける。

人類の宝も叡智も、一色の油絵具のベタ塗りではなく、
個々の町の風土に合わせて、グラデーションを織り成して、浸透していく。

そう考えれば、「差別はいけない」が、この町にどっしりと根を降ろし、
暮らしている人間の五臓六腑に染み込むまで、
何度でも、「私」は、差別について考え続けなくてはならないのだと思う。

本を読んで、初めて、ここまで差別について深く考えることが出来た。

余りにも長くなりすぎて、拾いきれない視点も多くあったので、ぜひ、この本を見かけたときには手に取って欲しいと思います。

この文もまた、あなたの新しい考えるきっかけになれば幸いです。

長い感想をご一読くださいまして、ありがとうございました。

(終)

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。