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回顧手記「不完全なる宿」 2007.04.11


「不完全なる宿」

 湖畔の小さな宿で、毎日何とも豊かで幸せな時間を過ごしていた。 その宿には、レストランもない。カフェもない。温泉もバスタブもない。テニスコートもなければプールもない。テレビもないし、カラオケもない。フロントもなければ、公衆電話もない。もちろん、売店もないし、自動販売機もない。その上、天井の板もなかったし、窓枠は仮留めだった。 宿のある村には、小さな八百屋とカフェとガソリンスタンドが一軒ずつあるだけで、予約をしないとシャトルバスも停まらない。 それでも、その宿にはたくさんの旅人が来ていた。 今から十二年前、ニュージーランドの南の湖のほとりの小さな村の不完全なる宿でひと月ほど過ごし、いつの日か旅人が豊かで幸せな時間を過ごすことの出来る不完全なる宿を作りたいと、思うようになっていた。 そして八年前、郷里の小樽にそんな宿を開いた。宿には TVもカラオケもバーも食堂も個室も温泉もない。しかし、一歩街へ出ると、そこには居酒屋もすし屋もお土産屋も映画館もガラス屋も温泉も市場もスキー場も眺めのいい公園博物館のような街並みもすべて充実して、必要なものはすべてある完成されたホテルのようである。 そんなこの街を気に入って、何度も来る旅人がいることを日々うれしく思う。

北海道新聞 夕刊 えぞふじ 2007年4月11日(水)  掲載

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