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レンタル畑初心者、“個”と“全体”について思う。

二年間、

ずっと空き待ちだった貸し農園で畑をかりることができてから、

はや半年以上がすぎ。

思うこと、考えること、感じること、感覚の変化が、

じぶんで不思議に思うほど、様変わりしてしまった。

なので、漠然とじぶんの中にあるものを書き出して整理したくなった。

noteを開く。

畑といえば、まずは虫のことを。


虫のこと。


虫っていままで正直、気持ち悪かった。

なんかテカテカしてるし、
脚がうじゃうじゃしてるし、

急に飛んでぶつかってくるし、
動きが素早すぎて予測できないし、

妙にも見える体のくびれや節くれ、長い触覚、なんだアレ。
とにかくぜんぶが何か怖い!

苦手!嫌い!近くにこないで~!


しかし、そんなわたしに変化がおとずれた。


畑を始めてから、
いや、それよりも以前の、

わが家のささやかな家庭菜園のプランターに集まる虫をみて、

だんだん仲間意識が芽生えてきたのが最初の変化の兆候。

生活がかかっている農家の方だったら
こんな呑気なことは言っていらないと思うけど、

『実がなったらいいな~♪』くらいの気ままな家庭菜園だと、

虫が集まってても、『ヤツラ、また来てる』と観察対象になり、

次第に『今日もいるのね』という常連さんのポジションに、
虫たちがなっていくのである。


わたしの大好物のパクチーの茎なんかを
好んで毎日とまっている虫なんかは、
むしろ『ウマのあう常連』のポジションだ。
気持ちはすでに、『パクチー大好きあるある早く言いたい~♪』の仲になっている。気持ちの上では。


このころに思っていたのは、
虫たちにとっては、世界がただ世界なだけだということー。

彼らには、『ここは森ノさんの敷地だから、入っちゃいけない』とか『他のひとの物を食べちゃダメ』だとか、そんなもんはないんだな、という虫の世界の当たり前のことを、ちゃんと認識できた。だから、もちろん『うちの野菜に来るな』とかも思わない。

たまたまわたしがここの地面の上に住んでいるけれど、
彼らの世界に境界線はなく、つまり、ここは彼らの世界の中でもあるのだという認識が、このときようやくわたし自身に馴染んだ。


十畳ほどの畑は、ただの生命の集まり


畑をはじめてからは、さらに彼ら(虫)の世界に突入した。

野菜のタネや苗を植えるとき、土にシャベルを入れる。

すると、土の中にうじゃうじゃいるんですね、虫たちが。

お馴染みの蟻やダンゴムシやミミズ、見たこともない虫や、神秘的な色の虫。

たくさん住んでいる。
で、クワとかスコップを使ったり、それこそただ土の上を歩くだけでも、もしかしたら踏んじゃったり、キズつけるかもしれないなぁという思いがわくので、土の上から一応声をかけ、避難してくれることを願う。どさくさに野菜を自慢したりする。

「ここを掘るよ」
「ちょっとどいててくれー」
「ゴメン、寝てたね」
「ここにジャガイモを植えるんだ。いいでしょ」など。


本当にあまりにもたくさんの虫がいると、気にならないもんですね。

家の中に1匹、カメムシが入り込んでこようものなら、

カメムシとわたしの硬直状態は続くが、

もうこうもワンサカいると、なんとも思わない。(たまに気が付くと腕にひゃく取り虫が乗っかってたりして、ヒッ!!ってなるときもあるけどw)


一度、土を掘っていて
芋虫みたいなのをシャベルで切ってしまい、
しばらく落ち込んだけど

そのとき、思ったんですね。

わたしが畑で、もしスズメバチにさされて死んでも、

山のぼり中に、ツキノワグマに遭遇してぶん殴られても、

文句は言えないな、と。

そして思い返してみれば、

こっちだって寝ているときに、散々虫に起こされて生きて来た人生だし(蚊)、

道を歩いていたら、耳の後ろにセミがジジジィィッて挟まったり(本当ビビった)、

ビアガーデンで友人の胸元にゴキブリが止まったり(爆笑した)、

例えばだけど、
チャドクガの毛が洗濯物にくっついて、ひどくカブレたり、
白アリに住む家を半壊されたりもあるわけで、

こっち(人間)だっていろいろ、驚かされているのでお互い様であることにも気がついた。

芋虫をシャベルで切ってしまって、
そんなふうに言い訳しているズルイわたしですが、

でもなんて言うのだろう、
同等な関係だと思えたんです。

人間が、一方的な、圧倒的な存在でないことに、安心したというか。(むこうにしてみれば、人間は進撃の巨人状態だろうが)

こんなふうに十畳くらいの畑の土の上で

みんなでごちゃごちゃしながら、

汗だくになって野菜のタネを植えたり、土寄せしたりしていると、

土がないと生きていけない生命たちが犇めいている』んだな、と思う。

畑は草がボウボウなのですが、
そんな草も野菜も、どこかから飛んできて小さな花を咲かせたスミレも、虫もわたしも、みんな土を必要としてたまたまここで、集まってわさわさしてるんですよね。

ほんと、アメトーーーーーークだったら「ぼくたち、わたしたち、『土好き芸人です』」の回みたいに、土が必要で、でも必要とも意識してないくらいに、
土の上でわさわさしている。飽きもせず。


野菜も、雨がない日は水をあげたり、蔓を誘導する支柱を立てたりはしているけれど、

それ以外は、とくに何もしていないのに、

三日前には小さかった実が

次に行くとジャンボになってて、笑っちゃうキュウリとか、

こまかく刻んで、めんつゆおおさじ2、お酢おおさじ1と、鷹の爪少し、
刻んだ青じそを一緒に一晩つける。ご飯に合う。以上。


ピノキオ茄子


みんな勝手に育ってくれてて、

そんなこんなしていると、だんだんなにがどうとか、だれがどうとか、

気にもならず、気にするなにかがない、

わたし自身がただの生命として

土の上で活動しているんですね。

自分という“個”を意識していないので、

ただ土の上でわさわさしている“全体”として

何かしている感じ。

『個は全体と繋がっている』と、言葉としてよく聞くが、

こういうことなのかもしれないと思った。


個は全体と繋がっている


本来は、“ご縁”のことであったり、生態系の仕組み、生命の営みの多様性のことを指していたり、微生物による循環のことであったり、
ひとびとの生活を支えるそれぞれの職業のことであったり、はかられたすべての調和を指した言葉として使われているのかもしれないけど、

わたしにとっては、どこかいまひとつ深い部分では実感がなくて。

それが最近、じぶんとしてしっくりくる表現がふっとわいて、

それは、『個は全体と繋がっているという言葉がない状態』と、言葉で表すと、わたしが畑にいるときの感覚を、うまく表現できているんじゃないかな、と思う。

個は全体と繋がっているという言葉さえない状態こそが、

個は全体と繋がっているんだという感覚。


ここまで書いていて思ったけれど、
あまりにも畑初心者すぎて、目の前のことにただ必死で
“無心”になっているだけかもしれないw

分かったふうに、個と全体はなんちゃら~なんて書いておいてw

でも、ま、畑瞑想みたいな感じにはなるんですかね。(知らん)

なんだかんだで、ゴキブリが怖いのは、変わらないんだけど!(ゴキごめん)


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