漁師の嫁

 朝、ベッドの中でメールを見ていると、崇の母から電話が来た。
 今うちに向かっているらしい。というかもう着くのだそうだ。

 いつでも来てくださいと言ったのは私だが、これは急というかもはや抜き打ちだ。

 電話で義母は、たか子さん(私だ)の手料理をぜひとも食べてみたいと言った。


 でも私は料理ができない。

 したことがない。


 高校まで、食べ物というのは手を叩くか、その辺の誰かに命じれば出てくるものだと思っていた。

 そういうことが普通ではないと知ったのは、私が大学生のとき崇と付き合い出してからだ。

 魚を見たいと言った私に父は、水族館と水産会社を買ってくれた。
 その中に彼がいたのだ。

 市場にはじめて行ったとき、彼は黄色の長靴と、真っ赤な水をはじくエプロンを着ていた。
 とてもおしゃれに見えた。
 それで気になって、毎日のようにお弁当を届けに行っていたのだ。


 そう。崇は漁師だ。もちろん今も海にいる。

 つまり義母の相手は私一人でしなければならない。

 メールが来る。
 私のマンションが見えたらしい。

 たいした時間稼ぎにもならないけど、私は返信を送る。


 何か食べたいものはありますか?

 マグロとイカが食べたいわ。


 あえてリクエストをうかがって、オードブルみたいなものを出しお茶を濁そうと考えていたが裏目に出た。
 漁師の母親に出前の海鮮を出すなんて自殺行為だ。

 どうしようどうしよう。まだ何を着るかも決めていないのに!
 再びメールがきた。でも怖くて私は見られない。

 しかたがない。

 パンパン!!

 手を叩く。

「マグロとイカ!」

 ピンポンとチャイムが鳴る。私はすぐさまドアを開ける。
 立っていたのは、私と同じ顔の女だ。


***


 快晴の空の下、私は海上を進むヘリの中でマグロとイカの調理動画を読み込んでいる。

「つきました」

 運転手から知らせを受け窓の外を見ると、眼下に一隻の漁船。
 私は縄梯子で船のデッキへと降りる。

「やあ」

 と、真っ黒に日焼けした崇が船室から出てきてそう言う。
 彼は抱えていたクーラーボックスを渡す。

「こんなことせんでもスーパー行けばいくらでもあるのに」

 私は笑顔でうなづいてそれを受け取り、片手で縄梯子をつかむ。
 遠ざかる崇を見ながら、頭の中でスーパースーパースーパーと繰り返す。
 ヘリに戻ったらすぐ調べよう。

 電話が鳴っている。影武者からだ。
 義母が今帰ったという。

「料理はどうしたの?」

「はい。大丈夫でした」

「あなたが用意してくれたってことね?」

「いいえ」

 なんでも、義母の相手をしてしばらくするとドアベルが鳴って、業者を名乗る男たちが入ってきた。
 彼等はアメリカ車くらいのクロマグロと、小型飛行機くらいの大王イカを持ってぞろぞろ入ってきたのだそうだ。

「しょうがないのでマグロはバスタブに、イカの方はちょっと置き場がなかったので水槽ごとリビングに入れておきました」

 そうか。あのとき、私が手を叩いたから。

「それをあなたが義母の前で捌いて見せたってわけね!さすが!」

「いえ」

 彼女が言うには、イカはまだ生きていた。

 ちょっかいを出そうとした猫があっという間に食べられ、それを助けようとした影武者もまた食べられそうになってしまった。

「あの、触手っていうんですか?」

「ええ、触手ね」

 わかる。ネットで調べた。

「あれに引っ付かれると、何本はがしても、また別の違うところに引っ付かれて、そうこうしている間に物凄い力で引っ張って行かれるんです」

 私は息をのむ。そんなことネットには書いてなかった。

「それでもうなんにもできなくなって。身体中臭くってべとべとして、そうやっているうちにいつの間にか烏賊の口が私の顔の前にあって」

「……どうなったの?」

 助けてくれたのは義母だった。
 彼女は影武者に絡みつく触手を持参していた包丁で一本一本切り取りながら、最終的に大王イカをさばいてしまったらしい。

 それから下の百貨店へ行って道具を買ってお風呂場のマグロもさばいてしまった。
 それを2人で存分に食べ、それから余った切り身をご近所さんに配って回って帰って行ったのだという。


 私はそれを聞いたとき、崇もそんな大変な思いをしてこのイカをさばいてくれたのかと、思わず涙が出そうになった。

「お義母さん、何か言ってなかった?」

「次は美味しいタコ料理を食べてみたいとか言ってました」

 心なしか影武者の声も感極まって震えている気がする。
 私はすぐにスマホでタコを検索する。

 なるほど、これがタコか!

 それですぐ私の水産会社に、今日来たイカと同じくらい大きくて活きの良いタコを、義母の家へ送ってくれるよう注文した。

 きっと喜ぶはずだ。


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