雨乞い
僕の妻は完璧だ。そばにいて楽しい。料理なんてちょっと感動的なくらいうまい。僕なんて3食感動しっぱなしである。雨乞いもうまい。世が世なら卑弥呼みたいな感じで村長に祭り上げられてしまうだろう。
さらに誘拐なんてうますぎて、ちょっとその技術を披露したら逆に方々から仕事や教えを請わるので、これに関しては僕の前以外ではやってはいけないことにした。
かくいう僕も彼女に誘拐された一人だ。
その日目覚めたらまったく知らないコンクリート打ちっぱなしの部屋にいた。
それが彼女との出会いだった。
誘拐の仲間たちが会社や警察と交渉する傍ら、彼女が僕のお世話をしてくれた。
そこで初めて彼女の手料理を食べたのだ。もう美味しすぎてここがどこだか分からなくなるようだった。
中でも彼女のつくる刺身は格別だった。スーパーから一冊買ってそれを一口大に切っているだけなのに、である。
白身は氷のように清らかで、赤身は肉のようにトロトロとしている。
食べると舌が踊り出す。気づくとなくなっている。そんな幸せな毎日だった。
「あなたの鯉の洗いが食べたい」
僕はそう切り出した。絶対にそれは美味しいはずだ。
もう想像できる。噛むごとに口の中で鯉の身はシャクシャクと音を立てる。その食感。どんどん目が開き、頭の中が冴えてくる。
純米酒が飲みたい。辛ければ辛い方がいい。
「…わかった」
僕の本気を受け止めて彼女は言った。
そうしてそっと部屋から出て行った。
でも結局、僕は鯉の洗いを食べることはなかった。
彼女が捕まったからだ。
他の仲間も僕を残して部屋から去っていった。
もちろん彼女は誘拐の天才だ。だがそれは綿密な計画あってのことだ。網を片手に民家の鯉を取ろうしていた彼女はただの鯉泥棒である。
なんでそんなミスを犯したのか。
それは彼女が僕を好きになったからだ。
自分が作った料理を、身を躍らせんばかりに喜んで食べる僕を見て、いつの間にか彼女は僕のことを好きになっていたのだ。
僕はそのことを面会室で聞いた。
彼女は元々調理師学校の講師だった。
あるとき、一人の女生徒に自分を付け回している男をなんとかしてほしいと持ちかけられた。
そこで男を誘拐したのだ。裸にして写真をばらまくぞと脅せばもうしつこくつきまとったりしないだろう。
誘拐は成功した。しかしその男はCIAの捜査官だった。
女性生徒と男は始めからグルだったのだ。
内に眠る誘拐の才能を見込まれ、僕の妻をチームのメンバーとして引き入れようとしたわけである。
彼女はこれを断ることはできなかった。
何故なら彼女は誘拐という罪を犯したからだ。それを人質(誘拐じち)にされたら従う他ない。
男は国際的な誘拐組織に潜入捜査していた。
彼女はそのグループの一員として活躍した。身代金のマネーロンダリングの行方や、他のメンバーの居場所、さらにそのビジネスがビジネスとして成り立つ仕組みや、根本の組織のグループまでつきとめた。
僕の誘拐は、組織のリーダーが新たなビジネスを求めて指示したことだった。
リーダーに感謝していいものやら。これがなければ僕らは出会っていなかったのは間違いがないことだ。
「結婚しよう」と、僕は彼女に言った。「僕はあなたとずっと一緒にいたい」
でも、彼女が目をそらした。
「できない。私はここで全部罪を償うって決めたの」
鯉泥棒のことを言っているわけではないのが分かった。
「でも、そんなことをしたら、君の命だって危ない」
誘拐組織だって、CIAだって敵に回すことになりかねない。
「いいの。全部私が選んで決めたことだから」
彼女は警察を始め、弁護士や検察に自分がしてきた誘拐のことを洗いざらい話した。
しかしすぐに釈放された。
僕も何度か彼女の役割を話すことになった。本当は隠しておきたかったが、そういうわけにもいかない。
でも彼女の関与は認められないということになった。鯉泥棒として処理されただけに終わった。
彼女は僕の前から消えた。
なんとなくこうなることは分かっていた。
しばらくすると、一通のメールが届いた。
探さないでください。このアドレスもすぐ破棄します。
私はあなたが好きです。今も一緒にいたい。私の料理を目の前にするあなたの顔が目に浮かびます。
でも、私の過去が私を許さない。
『いつ、許せるようになるの?』
そう僕は返信を打つ。
『今までしてきたことの罪を、私が償うまで』
そんな返事がかえって来る。
『それはどういう意味?』
危ないことをするのではないだろうか。
でも返信はなかった。
それでも僕は緊張しながら待っていた。
5日後、返信を知らせる通知があった。
『毎月1日の夜10時、あなたの家の近くの公園に雨を降らせます』
『どういう意味?』
でももう二度と返事は来なかった。
まもなくそのアドレスも存在しなくなった。
その翌月の1日、公園にはパラパラと雨が降り注いだ。
わけもわからず僕はその事実だけを確認して、家に戻った。
その次の月の1日にも同じことが起こった。どこかあたたかい雨だった。
翌月の1日は元旦だった。
クリスマスに降ればいいのになと思いながら、僕はその年の初雨を顔に受けた。
***
10年が経った。
雨は毎月1日に必ず公園に降り注いだ。
パラパラという日が多かったが、ザーザー振りの日もあった。そんなときは何かあったのかと思い、僕は空に向かって彼女の無事を祈った。
その間、僕はずっと一人だった。
毎月一日に必ず雨が降って来る。それだけで胸の中が満たされた。
雨の降り方がいつもより激しい日は記念日みたいに覚えている。
たとえば、3年前の6月1日。アメリカでCIA長官が誘拐された日はすさまじい嵐だった。CIAと聞くと彼女を思い出すので、僕はそのような類のニュースは逃さないようにしていた。
また2年前の3月1日。雑巾でも絞るような一滴か二滴くらいの雨粒が落ちた日は、大規模な反政府団体の摘発があった。
長官の誘拐がらみで指名手配されていた犯人グループが関係しているという噂があった。
それから去年の11月の竜巻。大統領選挙に伴い、凶悪な囚人の恩赦が行われた日だ。
そのことで大統領に収賄疑惑が上がったが、真相は分からない。
今日降らなかったらどうしようと思ったこともある。
そうなったとき、僕はどうなってしまうのか。
それが何を意味するのか、少なくとも次の1日までずっと考え続けることになるのかも知れない。
でもその次も来なかったら?
考えるだけで、胸が鉛でも詰められていくみたいに重くなった。
でも雨は毎月ちゃんと降った。たいていは優しい雨だった。まるで来月も降ることを約束してくれているような。
彼女は2月1日の雨の中に立っていた。
「ああ」と僕は言った。
うんと彼女は言った気がする。うなづいただけかも知れない。
不思議と懐かしい感じはなかった。10年前の彼女がそこに立っている。雨がずっと僕らを繋ぎ止めてくれていたのが分かった。
僕は手足を縛られてもなく、彼女の前にも厚いアクリルの壁はない。僕らは初めてお互いに自由だった。
「終わったの?」
彼女を抱きしめながら、僕は尋ねる。
僕の胸の中で、彼女が小さくうなづいたような気がした。
彼女が手に持つスーパーのビニール袋が、バサバサと音を立てた。
「なにが入っているの?」
中には丸々と太った鯉が入っていた。
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