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春、はなびら

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記事一覧

あの子の日記 「とじない花と」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 「春だから」 そう言い残していなくなった恋人を思い出す三日月の夜。うす雲で見え隠れする細い三日月は、あの子のまつ毛によく似ている。 満開の桜の下で最後に見つめた横顔は、ぼくの記憶から消えていないし、消える予定もないけれど、あの子はどうだろう。もう忘れてしまったかな。 ひらひらと散って地面に落ちていく花びらを見て、「なんか似てない?私たちと」と独り言のようにつぶやいたあの春が、たとえばもう少し肌寒くて、つぼみのまま開かな

あの子の日記 「最後のふたり」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 サイフォンに残ったコーヒーを冷たいカップに半分注ぐ。温かいうちに飲みきれば良かったんだけど、今はそんな気分になれない。向かい合わせに座ったシュンタは、サイフォンとカップを空っぽにしてテーブルの端によけている。 話題が尽き、ここにいる理由もないのに「帰ろう」と言い出せないのは、今日が恋人として会う最後の日だからだろうか。別れ話がチャラになって、「やっぱり俺はお前がいい」なんてふざけた台詞を心のどこかで期待しているからだろうか

あの子の日記 「左折」

肌寒い夕暮れ、十字路の真ん中。パンパンに詰まっているくせにやけに軽い旅行カバンを両手に持った私は、カーブミラーに映った二人を見つめている。 よれたシャツを着たエンドウ君と、おろしたてのワンピースに身を包んだ私が、鏡の中であたたかそうな日差しに照らされていた。たしか、お花見帰りか何かだったと思う。エンドウ君のくすんだピンクのシャツが桜の色よりも綺麗に見えて、可笑しかったのを覚えている。 夏になったら豊田で大きな花火を見たいとか、来年は桜の通り抜けに行きたいとか、ほんの少し先

あの子の日記 「ホエイ」

食欲のない昼過ぎに何か食べるならヨーグルトくらいがちょうどいい。調理しなくていいし、スプーンですくって口に運べば、噛まなくたってそのまま飲みこめる。食べることも、寝ることも、なんなら起きていることも面倒くさく感じる今日のような日のために、冷蔵庫にストックしておくべきだった。 数日前からまともに食事をしていないせいか、予想外の春の暑さにやられそうになる。のそのそと座椅子から立ち上がり、食材に期待せず冷蔵庫を開ける。気持ちのいい冷気の向こうには、買った覚えのない大容量のヨーグル

わたしの日記 「ざらついた愛たちよ」

あの子の日記 特別編 出会った人のアンバランスさに惹かれたり引いたりしながら、またひとつ歳をとった。23回目の年齢更新をして数日たち、やかましい道路沿いの小さなカフェでコーヒーにミルクを入れながらこれを書いている。 白いカップに注がれた温かいコーヒー。鼻がつまってよく分からないけれど、たぶんいい香りがしている。限りなく黒に近かった茶色はミルクと混ざって、やさしい茶色に変化した。 そんなコーヒーをスプーンでくるくる混ぜながら、相変わらず真っ白なカップをうらやましく思う。ミ

あの子の日記 「さよならリボン」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 誰かが椅子を引いた。椅子の脚と床がこすれた音はトロンボーンの音色に似ていて、シより半音低い音程だった。 もしかしたらどこかに奏者がいるんじゃないかと周りを見回してみたけれど、ショッピングモール内の小さなフードコートには私たちと似たような中高生がいるだけだった。 「さっきの聞こえた?」 「なにが?」 「椅子引いた音がB♭だった。あそこの東高の子たちのところ」 3年前、受験で落ちた東高の制服は県内トップクラスの可愛さだった

あの子の日記 「とびだせ」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 心臓の音をアンプにつなげて、大音量で流したら、あの子は気付いてくれるかな。 誰にも聞こえないビートを胸の奥で刻んで、平気なふりして過ごしてる。 「おはよう」って言えたらいいんだけど、教科書の1つくらい忘れたふりをして机をくっつけたらいいんだけど、考えるだけで何もできない。 たくさんの妄想は衛星みたいに僕のまわりをぐるぐる回って、僕は惑星みたいに君のまわりをぐるぐる回る。 テスト明けに席替えをすれば、きっとあの子は別の

あの子の日記 「わかれ道」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 自転車の光がゆらゆら揺れている。暗い地面を黄色っぽく照らすのは私ときみの2人分。 太陽に別れを告げて、くっついたり離れたりしながらゆっくり前に進んでいく。 目の前を小さく照らすことしかできない私たちには、ずっと先に続く道が薄暗くてよく見えない。 だけど、ときどき街灯が顔を出して一瞬だけ光を与えてくれる。 きみと一緒に帰れるのはあと何回だろう。来年の春になれば、きっと離れた場所でそれぞれの大学生活が始まっている。 本

あの子の日記 「知らない」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 「ちょっと飲みに行こうよ」なんて、珍しいと思ったんだ。いつもと変わらず可愛らしい笑顔の君だけど、今日はなんだか違うね。 他愛もない会話が一区切りついて、冷たいハイボールを飲み干した後の一瞬に寂しそうな表情が浮かんでいた。 君は飲むペースが上がるにつれ、ゼンマイ切れのおもちゃみたいに話す速度がだんだんと遅くなっていく。お酒が悲しい気持ちを溶かしてくれないことなんて知ってるくせに、今日はたくさん飲んでしまったね。 ふらつき

あの子の日記 「未来行き各駅停車」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 窓から見える街は、世界を早送りするように僕の後ろへ流れていく。後ろ向きに座りなおして時間を巻き戻せたら、やり直したいことがいっぱいある。 お酒で顔を赤くした僕を乗せる電車が過去に向かって発進する。 ぼやけた目に映るショートヘアの女性。10代の頃に気になっていた女の子に似ている。 日中すれ違う度にちょっかいを出し、家に帰ると既に把握している翌日の時間割を知らないふりしてメールで聞いた。 当時の僕は不器用で素直じゃなかっ

あの子の日記 「夜は夢のなかで」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 「私のどんなところ好きになっちゃったの?」と聞いておいて、僕の答えを待たずに眠る君。 僕はね、君のそういうところが好きなんだよ。 猫みたいに気まぐれな君は、なんだか落ち着かない。でもそれが君らしくていい。 静かに寝息をたてる君を見ていると愛おしさが溢れてくる。ぎゅっと抱きしめたい気持ちはしまっておいて、そろそろ僕も眠ろう。 おやすみ。

あの子の日記 「あふれる」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 何もしたくない夜。こんな日には、みんな何をしているんだろう。 別に嫌なことがあったわけじゃないの。ただ私を支える核みたいなものが鉛のように重たくて、なんだか前向きな気持ちを吸い取られてるみたい。 胸のなかに溜め込んだものがいっぱいになるっていうのは、きっとこういうことなんだね。コップになみなみ入っている水みたいに溢れそうで溢れない何かが私の邪魔をしてる。 だから今はすごく温かい言葉に触れたい気分。触れて、優しい気持ちに

あの子の日記 「さめないで」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 良くないことした。お酒に飲まれてたというか、雰囲気に流されたというか。佐伯さんには彼女がいるって知ってたのに、本当ごめんなさい。 今日みたいに大学サークルで仲良かった5人が集まるときは、楽しく飲んで健全な時間に解散するのがいつもの流れ。だけど今日はちょっと違って、こっそり佐伯さんと2人でバーに行ったの。 バーへ向かう道中ちょっと距離が近いなとは思ったけど、この距離感を楽しんでたのが正直なところ。 佐伯さんは大学時代から

あの子の日記 「ゆらめいて」

日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集 今年の桜はとっくに咲いてもう散り始めてる。早いなぁ。春はこんなに早足だったかな。 花見のピークはとっくに過ぎてると思うんだけど、どうして散りかけの今になって開催するんだろう。せっかくなら満開の桜の下でお酒飲みながらワイワイしたかった。 中学からの友達と一緒にお酒を飲めるようになったなんて感慨深いよ。高校以降はみんなバラバラ。僕は大学に進学したけど、高校卒業してすぐに就職した人だっている。僕たちが出会った理由なんて生まれ育