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読書記録33『急に具合が悪くなる』宮野真生子・磯野真穂

こんにちは、だるまです。しばらく更新していませんでした。大忙しの師走、伊達に走ってません。

少し前に読んだ本を紹介したいと思います。

『急に具合が悪くなる』宮野真生子・磯野真穂

蔦屋書店のコンシェルジュの25冊という選書パンフレットで見つけました。自分で選ぶのもとっても楽しいですが、こんな風におすすめの中から、全く知らなかった本に出逢えるのもまた楽しいものです。

この本はお二人の往復書簡をまとめたものです。人の手紙を読む、という新しい読書体験で、少しどきどき、背徳感を感じました。

ただの往復書簡ではなく、様々な背景があるのですが、それは実際に読んで知っていただきたいです。だるまの浅い理解で言葉にすることは、お二人の覚悟を汚してしまうのではないかと思います。

ここでは、往復書簡の中で心に刺さった言葉を引用します。

「選ぶ」ことについて

「選ぶとは能動的に何かをするというよりも、ある状態にたどりつき、落ち着くような、なじむような状態で、それは合理的な知性の働きというよりも快適さや懐かしさといった身体感覚に近いのではないか、そして身体感覚である以上、自分ではいかんともしがたい受動的な側面があるのではないか」

p.51 宮野パート

「選ぶ」ということはなにごとか、ということについて語っている部分。
「今までの選択の積み重ねの上に人生がある」
と言いますが、果たしてその「選択」とは能動的なものなのか、むしろ受動的なものではないかという考えです。
確かに、「えいやっ」と何か決断したとき、そこには合理性はなく、「ピンときたから」や「何か感じたから」という直感が働くことが多い気がします。それは、だるまの好きな「縁」に通ずるものがあります。

書簡とLINEと会話と

磯野さんは、書簡について、

「話題をかえるのがとても難しい」
「一貫性を持たせようとすることに関連しているという結論に達しました」

p.125 磯野パート

と述べます。LINEは話題が変えやすいと言います。
宮野さんは

「書き言葉は、この往復書簡のように宛先があってさえもなお、モノローグになってしまいます。(中略)そこにはタイムラグがあり、だから、どんなふうに読まれるか書き手が不安になり、相手にきちんとわかってもらうために余分なものは省き、一貫性をもった形に書き言葉は整えられてゆきます。文学は、そうした余分をうまく作りつつ一貫性をもたせることで芸術として成り立っている、と言えるのかもしれません。」

p.134 宮野パート

と返します。

ここで、書簡とLINEと会話の違いは何だろうかと考えました。
書簡は、宮野さんの書く通り時差があって、色々な配慮をします。noteはさらに、特定の伝える相手が存在しないため、より考えを巡らせます。
LINEは、相手に話題のボールを投げつけるイメージです。「これ話したいから時間のある時によろしく!」と、何個も話題を同時並行で話すことができます。
会話は、最も密で、すごい速さで話題がすり替わります。一貫性はなく、だからこそ広がっていきます。

書簡のスピード感も、会話のスピード感もどちらも好きだなと思います。
苦手なのはslackかもしれません。会話のスピード感と、書簡の配慮がごちゃまぜになるからです。

新しい始まり

最後に、後半の手紙の部分を引用します。

「いま私は、『立ち上がり』『変わり』『動き』『始まる』と書きました。そう、世界はこんなふうに、いつでも新しい始まりに充ちている。(中略)そんな世界へ出て、他社と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いを引き受けるところにこそ、自分がいる。」

p.224 宮野パート

終わりに近づくにしたがって、質感が変わっていく手紙のやりとりの中で、「自分」の存在について述べた部分に心打たれました。

そこから、「よし、理不尽で絶望ばかりでどうしようもない、だけど始めることはできるこの世界を生きよう」と思えたのです。

おわりに

正直、お二人の言葉の往来は難しく理解が追い付かない部分もありました。
その中でも、ピンときたものを「選び」、感想を書いてみました。
この選択は受動的なものなのでしょうか。
考え始めるとぐるぐるしてきます。

最近読んだ、『水中の哲学者たち』、『考えるとはどういうことか』とリンクして、しばらく「考える」ことにとらわれて過ごしそうです。
現実は目の前の課題に忙殺されているわけですが。

思ったより長くなりました。
かしこ

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