見出し画像

事実証談_第一部_神霊の部まとめ


周智郡森町で暮らしてしばらく経ったある日。
「怖い話知らないですか」
と声をかけてまわっていると
「遠州の怖い話をまとめた書物があるよ」
と教えてもらいました。
そこで「事実証談」について知りました。
(ジジツショウダンもしくはコトノマコトアヤシガタリ)

古文が読めるわけではないし、得意でもないけど自分なりの解釈で読んでみました。ゆるゆるの独自解釈なので、補足や「いやこの訳は明らかに違う!」って場合はぜひ指摘してください〜!
なお、静岡県周智郡森町のエピソードだけ抽出しているため、不思議な話数からスタートします!はい、よろしく!


第11話 周智郡天宮郷

天宮社の灯籠の灯と怪しい物音の話

周智郡天宮郷、天宮御社にて、天明年中の頃、ある日七つ時頃、神主中村豊隆(乗高の父)物する事有りて、御社中に行き見れば、御社内の灯篭、数多灯(とも)し有りけるを見驚き、駈け行き、戸を開け見るに、御祭礼の夜の如く、灯篭立ち並べて、灯し有り。
怪しみて隅々まで見廻せども、人の入りし様にもあらざりければ、社家乗松衛門を聞き糺さしむれども、その由を知らず。なお氏子に告げて、とかく糺しけれども、その由を知る者なかりし故、氏子皆怪しみ、いかなる事かあらんとて、氏子残りなく参籠所に寄り集り、その夜、通夜せしかども、その後は怪しき事もなかりしと言えり。
また明和の頃、神主中村暉意、明六つ時、社参せしに、社中に物音有りしぞ事もありつと言い伝えけるが、これもその由縁を知る人なしと言えり。

かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡天宮郷、天宮神社で天明年(1781年から1789年の間)の頃。
ある日の七つ時(午前4時頃?)、神主中村豊隆(著者である乗高の父)が物音を聞いて、御社の中を確認しに行くと、御社の中の灯籠がたくさんついているのを見て驚いて、かけ寄って、戸を開けてみると御祭礼の夜のように灯籠が立ちならべて灯してあった。
おかしいと思って隅々まで見廻したが、人の入った様子もないし、社家の乗松衛門に聞きただしてみたけど知らないという。それから氏子にも伝えて、聞いて回ったが、みんな知らないという、氏子たちはみんなおかしいと思って、何があるかと氏子みんなで参籠所に集まって、夜通し居たけど、特に怪しいことも起こらなかった。また、明和(1764年から1772年の間)のころ、神主中村暉意が、明六つ時(午前6時頃?)に社参(お参りなのかな)すると、社の中から物音がしたと言っていたが、これも詳細を知る人はいない。

天宮神社のお話。シンプルに不思議で、情景も素敵。


第12話 周智郡宮代村

真砂神社の社の向きを変えて祟りを避けた話

周智郡宮代村に真砂社とて、小国神社(この国の一の宮にて宮代村に坐せり)の末社あり。 この往昔より、本社へ往来する道より凡そ一町ばかり隔てりて、西なる山際に東向きに宮所有りしが、いかなる故にや、宝暦年中に至りて、その道を往来する者、かの社の東に来たれば、馬に乗れる者は落馬し、笠着て行き過ぐる者といえども、忽ち障りあるゆえ、かの社の崇りならんと和(なご)し祭れども、止まざりければ、為方(せんかた)なく、その社を南向きに引き直せしより、その崇り止みにしとなん。そのこと取扱いし前神主、鈴木弾正貞実の物語りなり。

かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡宮代村に真砂社という小国神社の末社があった。この道は、昔から本社へ往来する道よりおおよそ一町ばかり離れていて、西の山際に東向きに宮所があったが、どういうことか宝暦年(1751年から1764年)になると、その道を行く人たちが社の東側に来ると、お馬さんに乗って通れば落馬するし、笠(現代でいえば帽子)を被ったまま通っても障り(悪いこと)があった。「祟りやめてくれ〜」と優しくお願いして祭っても祟りは止まない。もうどうしようもないので、南向きに社を曳き直したら祟りが止んだ。そんな話を前の神主さん鈴木弾正貞実さんから聞いた。

なんで向きを変えたら祟りが止んだのかな。
本社とを結ぶ通りだったから「無礼だぞ!」ってなったということなのか?
宮代村は現在だと一宮のどこかにあたるようですね。
具体的にはどのあたりなんだろう。


第18話 周智郡天宮村

飯王子の杜の枯れ枝を薪にして祟られた老婆と社宮子の罰

周智郡天宮村に飯王子(しゃぐじ)の杜(もり)(或は社宮子又左軍師、左口神、赤口神、六狐、また夜川十五七百村なるは社子神と書けり、未詳)とて、雑木生い繁りし杜有り。※ 夜川十五七百村 - 周智郡にかつてあった村寛政年中、ある老婆、かの森の枯れ枝を取りて薪とせしに、それより眼かすみて、瞽(めしい)の如くなりしゆえ、飯王子杜の崇りなるべしと、天宮の社人、乗松衛門という者に乞いて、祈願せさせたりければ、廿日余りかすみたりし眼の、忽ち明らかになりしは、誠にかの崇りなること、著しくぞ有りける。すべて飯王子の杜というは、山里に数多あれども、祠のある所は、おさ/\見えず。多くは楠の木をしるしとし、諸木生い繁げれる杜のみなるが、萬ずに付きて、崇り有る事、いち早き故に、速かに崇る事をば、世の諺に「社宮子の罰」と言えり。※ おさおさ - ほとんど。まったく。

引用元:かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡天宮村に飯王子(シャグジ)(あるいは社宮子又左軍師、左口神、赤口神、六狐、また夜川十五七百村では社子神と書いた)の杜という草木の生い茂った社があった。寛政(1789年から1801年までの)年の頃、あるおばあちゃんがその森の枯れ枝をとって薪にしたら、それから目が霞んで、目が見えない人のようになったので、シャグジさまの祟りだと思って、天宮の社人、乗松衛門さんに頼んで祈願してもらった。すると20日くらい霞んでた目がたちまちに見えるようになったので、あれは間違いなく祟りだったと確信。
シャグジの杜は山里にたくさんあるけど、祠のあるところはほとんど見えない。多くは楠の木を目印としていて色々な木が生い茂ってる社だ。なんにでも憑いて祟りがあること、すごい速さで祟ることを世の諺で「社宮司の罰」と言える。

※シャグジ(ミシャグジ、ミシャグチ)ってのは民間信仰の精霊みたいなもので、長野県の諏訪神社から伝播してきているようです。
また、中部地方に多くみられるらしいです。(wikiで調べたからほんとかどうかはわからないけど)

かさぶた日録さんにはちょっとだけ詳細があるので気になる方はリンク踏んでいってください!
また、後半の意訳がわからなすぎてグダってるので詳しい人助けて欲しい!


第19話 周智郡太田郷粟倉村

杣人の武助と社宮子の森の木の怪事


同郡太田郷の杣人武助という者、粟倉村社宮子の杜の木を伐りべかりしに、その日伐り終らず、翌朝、又伐らんとて、行き見るに、一夜のうちに、昨日の伐り口癒(い)え合いて有りし故、畏き事に思い、粟倉村文殊院という修験に祈願を頼みて、札守りをかの杜(もり)に収めしといえり。

かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
太田郷の杣人(きこり)武助という人が粟倉村のシャグジの杜の木を採ろうとして、その日だけでは取り終わらず、翌朝また取りに行こうと行ってみると、一晩のうちに昨日の伐採の切り口が癒えていた。恐ろしくなって、粟倉村の文殊院という修験者に祈願をお願いして、お札をシャグジの杜に収めた。

かつては円田のあたりに粟倉村という村があったようです
気づかないで採っちゃうのがシャグジの森の怖いところだな。
シャグジトラップ。


第20話 周智郡天宮郷薄場村

市兵衛と切り口が塞がった松、社宮子の罰で口が曲がった粟倉村の人の話

同郡天宮村、市兵衛という者、天宮郷薄場村の山にて、松の木を伐りしに、その日伐り終えずして、翌日なお猶伐らんと行きしに、切口もとの如く癒(い)え合たりし故、怪しみて伐る事止めしと言えり。又粟倉村の何某、同村なる社宮子の杜の木を伐りしより、口曲がりたるも、上にいえる文珠院の父、仲條院の祈願にて、速かに直りしと言えり。これは安永年中の事なりとぞ。

かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
天宮村に市兵衛という人がいて、天宮郷薄場村の山で、松の木を切っていたがその日は伐り終わらず、翌日また伐りに行くと、切り口が元のように癒えていたので、おかしいと思って採るのをやめた。また、粟倉村のある人が、同じ村の中のシャグジの杜の木を伐ると、口が曲がってしまったが、前述の文殊院の父、中條院の祈願ですぐさま治った。これは安永年(1772年か
ら1781年まで)の頃の話だった。

薄場村は天方地区にあった村のようです。
シャグジさま、祟り方が色々あるな。
あと障りがある人ない人もいるけど、どういう基準なの。


第24話 周智郡粟倉村

荒神の社の木を伐り、木に押殺された宮代村の幸右衛門

周智郡粟倉村、鷲岡寺門前なる荒神の社の神木と言い伝えし木を、同郡宮代村幸右衛門という木挽き、伐りけるに、その木に押し殺されしと言えり。これは天明四年の事なり。

かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡粟倉村、鷲岡寺門前の荒神の社の神木と言い伝えられている木を、同郡の宮代村幸右衛門という木挽(木を切る人)が採ると、その神木に押し殺されたという。これは天明四年(1781年から1789年)のことだ。

大事な木は切っちゃいけないね。(教訓)


第29話 周智郡宇刈郷

山神の木を伐り、押し殺された与兵衛

周智郡宇刈郷に、次郎九、与兵衛という者両人、文化四年十一月七日、山神という所の木を伐り初めしに、その日伐り終らず、また翌八日に行きて伐りたりしに、与兵衛その木に押し殺されしと言えり。

かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡宇刈郷に、次郎九、与兵衛というものが二人、文化四年の10月7日に、山神というところのきを伐り始めたがその日には伐り終わらず、また翌8日に行って採ろうとすると、与兵衛がその木に押し殺されたという。

あ〜、やっぱり大事な木は切っちゃいけないね。(教訓)


第40話 周智郡天宮郷薄場村

奥岩戸大明神の伐木の祟りと遠江灘の方角定めの火のこと

周智郡上郷、小国社の本宮と称して、天宮郷薄場村奥山に奥岩戸大明神という社有り。
その社に続きし山林を、その村にては百姓持山なりと言い、本社の神主はかの社の境内なりと言い争いしが、終に百姓の物となりて、その山林を売り払いしに、その山買い取りし者、寛政四年伐り初めしより、手足かゞまり付き、起き臥しさえ、人の助を得てなせり。
またある時、その山に雷落ちて、杣人天宮村徳右衛門、喜代助、ゆゝしき障り有りしと言えり。
されどかゝる事を神の崇りとも知らずや有りけん。
その山林は伐り終わりて、杉、檜の板を同村清十という者の家に、あまた持ち運び、積み置きしに、雨い多く降りける日、出火して、清十方に積み置きしは、残りなく焼失しは、誠にいみじき御荒びになん有りける。
かくて、かの山林買い取りし者は、そのまゝにて、十六、七年世に有りて、近き年頃、死にたりしを、この記集撰につきて、問い合わする度毎に、かの者難病にて有りけるを以って、これは誠に社木を買い取りし崇りにてあれば、後世の人の為に、この事、集記の片端に記してよと、自罪を悔いての物語りなりき。
因(ちなみ)に曰(い)う。
遠江灘七十五里は、名にしおう難海にて有けるを、通船夜に入りて方角分き難き時、この本宮山に祈願し、火を乞い奉(まつ)れば、必ず火の現るゝと言い伝えしを、実に然りと見えて、近来度々その礼謝なりとて、尾振りといゝて、魚を奉りし事ありと言えり。

かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡上郷にある小国社の本宮と称す、天宮郷薄場村奥山に奥岩戸大明神という社がある。
その社に続く山林を、その村では「百姓の持山だ!」と言い、本社の神主は「小国社の境内だ!」と言い争っていたが、ついに百姓の物となって、その山林を売り払った。その山を買い取った人が、寛政四年に木を伐り初めたところ、手足が曲がり、寝起きすら、人の助けがいるようになった。
またある時、その山に雷が落ちて、杣人(きこり)である天宮村の徳右衛門と喜代助はこれは大変な障りだといった。
とは言え、これらは神の崇りとも思わずにいた。
その山林は伐り終わって、杉・檜の板を同じ村の清十という人の家に、たくさん持ち運び、積み置きした。雨が多く降っていた日なのに出火し、清十方に積み置きした木材は、跡形も無く焼失し、これはかなり怒ってるようだ。
こうして、この山林を買い取った人は、そのまま、16~17年生きたけど、この頃、死んだらしい。これを編纂中に、問い合わせると毎回、その人は難病になったのを、「これは社木を買い取って崇りにあったので、後世の人の為にこの事をその本の片端に記してくれ」と自分の罪を悔いて語ってくれた。
ちなみに言うと、遠江灘(遠州灘)七十五里は、航海が難しい灘として名高く、通船(かよいぶね)が夜に入って迷う時は、この本宮山に祈願して、火を乞い奉(まつ)ると、必ず火が灯っているため、本当に助かる。(目印になって)この頃は度々その礼謝として、「尾振り」という、魚を奉る事があるという。

難しかった・・・!
ほとんど勘で訳しました・・・。
尾振りって何・・・?ブリ?

江戸時代、遠州灘を夜間に航行する船にとって、山上にわずかに灯る火が大切な道しるべになったことは、何となく想像できる。ただ現在は山頂も木で覆われて、山頂からは海を見ることすら出来ないかもしれない。

かさぶた日録さん

火の神なのかな。だから雨の日でも火がついたのかな?


第42話 周智郡天宮郷

天宮社の梛の木が、月役の女の穢れで枯れかけた話

周智郡天宮郷、天宮御社の側に梛の大木ありけるが、寛政年中、ある女乱心して、月役を憚らず、その木の辺りを狂い歩行しかば、それより、かの梛の大木、紅葉して半ば枯れたるを、祓い清めたりければ、また若葉生い出て、なお常磐に栄えけるゆえ、注連引きはえて、神木とはせり。


かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡天宮郷の天宮御社のそばにナギの大木があるが、寛政年の頃、ある女性が乱心して、月経中にもかかわらず、その木の周りを歩き狂うと、それによって、あのナギの大木が、葉を紅くしほとんど枯れてしまった。それを祓い清めてやると、また若葉がついてそれからは常に栄えてるのでしめ縄を張って、神木にした。

月に一回必ず穢れる方の性別の人間なので、こういう「生理=穢れ」系のお話には真っ向勝負を挑みたくなる。
私も月役の時にナギの木の周り歩き狂おうかな!
今現在、天宮神社に行ってもこのナギの木は現役です。


第43話 周智郡森町村

隨松寺西北の折れた松と火災の予兆の怪

同郡森町村、隨松寺という寺に、文化三年、故有りて、人数多寄り集りて有りしに、寺の西北なる山の大松、風もなきに折れたりしかば、人怪しみ占(うらない)せしに、火災の兆(しるし)なりと言いしが、日を経ずして、かの松折れし山の持主の家の灯籠に、火付きて騒ぎしと言えり。


かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
同郡森町村の隨松寺という寺に、文化三年(1806年)のころ、わけあって人がたくさん集まっていた時、寺の北西にある山の大きな松が、風もないのに折れたので、人々は怪しみ、占うと、火災の予兆だといった。たちまちその折れた松に、山の持ち主の家の灯籠の火がついて騒ぎになった。

急に折れたら怖いし、折れた先にあったお家は災難すぎる。


第44話 周智郡宮代村

明神社前の折れた松

同郡宮代村、神明社の前、道際(みちぎわ)なる松の、大枝風も無き日に折れたりしが、如何なる故という事を知らずと言えり。


かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
同郡宮代村の、明神社のまえ、道端に生えている松の、大枝が風もない日に折れたが、どうしてなのかは知らないと言う。

また折れた。


第45話 周智郡赤根村

天神社の松の大枝が折れた怪

同郡赤根村、天神社の傍らに生い立てし大松の木の大枝、文化十三年八月七日九つ時頃、風も無きに折れしが、周(めぐり)り廻り凡そ五六尺有る大枝にて、いさゝか損じたる所も無く、朽ちし所も無きに、折れしは如何なる兆しならんと、怪しみしに何の障りもなかりしと言えり。


かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
同郡赤根村の天神社の傍に生えていた大きな松の木の大きな枝が、文化三年八月七日の12時頃、風もないのに折れたが、円周おおよそ56尺(16.9697メートル)もある大枝だ、どこか欠損していたわけでもないし、朽ちたところもなかったのに、折れるのはどんな予兆なのかと、怪しんでたが、特になんの障りもなかったと言う。

これは・・・?枝が急に折れて、特に何もなかった話なのか・・・?
意訳すぎて何もわからない。勘です。


第54話 周智郡鴨岡村

加茂明神の伐木の祟り

周智郡鴨岡村、加茂山は則ち加茂明神の杜なり。この社木も伐れは崇り有りと言えり。


かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡鴨岡村の加茂山はすなわち加茂明神の杜である。この社木も伐れば祟りがあると言える。

鴨岡村は飯田のあたりにあった村のようです。
無闇矢鱈と木をきると危ないね。


第55話 周智郡天宮村

田中の塚の草刈りの祟り

周智郡天宮村の田中に一つの塚あり。その塚なる草を苅れば、忽ち崇り有りと言えり。こは如何なる由縁の塚とも知られねども、同村善太郎という者、往古より毎年七月、祭をなせり。近き年頃、同村清七と言いし者、その塚の草を苅りたりければ、忽ちに瘧を煩いしとかや。すべてかゝる例は数多かれば、上げて数え難し。
※ 瘧(おこり、ぎゃく)- 間欠的に発熱し、悪感(おかん)や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。


かさぶた日録さん

ゆるふわ意訳:
周智郡天宮村の田中に一つの塚がある。その塚の草を刈ると、たちまち祟りがあると言う。どんな由縁の塚とも知らないが、同村の善太郎と言う人が、昔から毎年7月に祭りをした。最近、同じ村の清七と言う人が、その塚の草を刈ったら、たちまちに病気になった。あまりにもかかるので、数えることも難しい。

草刈りは景観維持にも大事なのに。
善意で刈っても祟られるのか。


終わりに


神霊の部の周智郡分はこれで終了(のはず)
該当箇所の写真も添付できたらしたいので、都度取材に出かけようかな!

かさぶた日録さんは天宮神社に行くとほぼ必ず出会うボランティアジイジが教えてくれました。5月頃行くと熱く「※モリアオガエルの卵みたか!!」と詰め寄り、場所を教えてくれるジイジです。
※苦手な方はリンク踏まない方が吉。

まだまだ続きがありますので、かさぶた日録さんの力を借りながら、まとめていけたらいいな〜!
コレを基にして何かイベントごとに絡めたいと画策しております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?