久々に「白い巨塔」を見て、いろいろ感じたことを…。
はじめに
医療ドラマの金字塔のような作品だが、心を揺さぶられるようなシーンが多いと思う。昔の田宮二郎版も面白かったが、やはり唐沢寿明の財前と江口洋介の里見の演技が素晴らしいと感じる。また新しく別の若い俳優さんで作られたとも聞くが、それはまだ見ていない。
しかし、こうして何度も作られるということは、それだけドラマとしては不変のテーマを扱い、人々に訴えるものがあるからなのかと思う。このドラマをもとに癌や死について書いてみたい。
見るたびに感じ方が違うドラマ
財前と里見は友人でもありながら、ライバルでもあり、考え方は違っていても、お互いの技量を認め合っている。医者のタイプとしては里見は万人に好かれる優しい内科医という感じだが、財前も素晴らしい腕を持った外科医なのだと思う。ただ己の技量に溺れてしまったことと、自分の野望に対し、手段を択ばず、達成しようとしたところに過ちがあったのかとも感じる。
自分が歳を取り、いろいろな経験をし、特に癌で身近な人を無くしてしまった経験などを経てから見ると、感情移入をして見ざるを得なくなる。
作者の山崎豊子は何度も取材を繰り返し、そこから鋭い視点でこの作品を書き上げたのだと感じる。それだけに自分自身の中で、人生経験を重ねれば重ねるほど、再度、このドラマを見た時に感じ方が変わってくるのかもしれない。
やはり最後は「無念」という思いなのだろうか。
身近な人が癌になり、見舞いに行ったりすると笑顔でよく来てくれたとか、辛くても元気に振舞おうとしているとか、そんな姿を見ると、案外、大丈夫なのかとも錯覚してしまうが、亡くなってから本人の心の内を思う時、何もできなかった自分がもどかしくもあり、胸が締め付けられる。財前が自分の癌を知り、手術後の本当のことが知りたいと里見の病院を訪ねていくシーンがあるが、本当に泣けてくる。一通り診察を終え、財前が里見に問う。
人は死を前にした時、どうなるのだろう。余命を宣告されたら、どうなるのだろう。あまりに過酷で考えられない。その瞬間にいろいろな思いがこみ上げてくるものなのかとも思う。このシーンには多くの思いが込められているようで、何度、見ても胸が熱くなってくる。本気で助けたいと願う里見、そして里見の気持ちがわかって素直にうれしさを表明する財前。
二人の間には過去にいろいろあったのだろうが、純粋に友として、財前を助けたいという気持ちが表れている。財前は確実な死を前にして本音が出たのかとも感じる。それは相手が里見だからであり、目をはらし、最後に「無念」だと心の内を吐露したのかとも感じる。
癌患者を見舞って感じること
数年前、父を慕い、遠路をいとわず、参拝に来てくれていた信者さんのことが思い出されてならない。ある日、来月から参拝に来れないとのことで、入院するとのことだった。聞けば癌治療に入るとのこと。それなら認知症で、もう出かけられない父の代わりに、私が見舞いも兼ねて、おさづけを取り次ぎに行かせてもらうべきだと心を定め、月に一度、入院先へ通わせてもらった。
抗がん剤治療も始まったと聞いたが、髪の毛もあまり抜けていないようだし、点滴を付けたまま、比較的自由に動ける姿を見て、安堵もした。また話を聞けば、信仰しているから大きな不安もないようなことも語られた。
しかし、それは、私に対する気遣いであり、本音は財前と同じ思いもあったのではないだろうかとも、今にしてみれば思う。奥さんのこと、お子さんのこと、諸々、不安材料もあったことと思う。また自分がいなくなることで、残された人への思いもいろいろあったことと思う。強がりを言っても始まらない。
ずっと年下の私に対し、恥ずかしいところは見せられないという思いもあったかもしれない。
あれから何年も経ち、同じく大学時代の友人を癌で亡くした時、いろいろなことが思い出された。あとで聞いたら、検査した時には既に「ステージ4」だったと聞いた。余命を宣告されたときの気分はどうだったのだろう。家族への思い、自分の心の整理など、どうやっていたのだろうとも思った。訃報だけが届いた時、数か月前にうちを訪ねてきて、帰り際、家の前で、「じゃあ、また来るわ」と車に乗り込んだ姿が目に焼き付いていて、今でもそのことが、思い出される。もし、見舞いに行くことができていたなら、彼も私の前で財前のように「無念だ…」と語ったのだろうかとも思えてくる。仮にそうなったとしても、私自身も里見のように為すすべなく、ただ寄り添うしかできなかったのではなかっただろうかとも思えてくる。
死を前にして自分は正しかったのかと自問する
このドラマの最終回で、愛人の景子と財前が病院の屋上で、癌センターの工事現場の夜景を眺めながら話すシーンがある。
いろいろな思いが凝縮された場面だと思うが、人は死を前にしたら、自分の生き方が正しかったのか、見つめ直すものなのかと思う。自分の過ちに気づきながらも、正しいと思う道を歩んできたと考えるものなのかとも思う。しかし、それは誰にもわからないものであり、答えは出てこないのかもしれない。それだけに財前が「わからないんだ。死を前にすりゃ、少しは達観して、自分が見えるかと思った。何も変わらない。むしろ余計わからなくなった。」というのが、本当の気持ちなのかとも思った。それだけに今まで癌で亡くなった知人たちが、こんな気持ちを持って、亡くなるその日まで過ごしていたのかと思うと、心が締め付けられる。
死は避けられないもの
唐沢寿明版の「白い巨塔」が放映されたのは2003年だったが、それから20年経った現在、癌治療は大きく発展したのだろうか。ドラマの最後の方で財前の遺書で、「遠くない未来に癌による死が、この世から無くなることを信じている」と語られていたが、20年経った現在、まだまだ癌による死が無くなってはいないようだ。
死は避けられないものであり、誰にでも平等に訪れるものだ。ただ早いか遅いかだけの違いだ。そして、その日がいつ訪れるのかもわからない。
癌の場合、症例から考え、あと余命はどのくらいと言えるところまできているのかもしれないが、近い将来だとわかったなら、自分はどうするのだろうとも思う。
あわてて、何とか書ける間に、遺書を書くだろうか?無理してでも行きたいところへ行くだろうか。やり残したと思えることを、治療をやめても、とにかくやるだろうか…。財前ではないが、私もよくわからない…。
宗教が救ってくれるのだろうか?或いは救いを求めれば救われるのだろうか。厳しい現実が待っているだけのような気もしてならない。
確実に言えるのは今、生を受けてこの世にいるのなら、間違いなく「死」は訪れるということだ。健康であっても、不慮の事故や災害で明日かもしれない。振り返ればあの時、あのタイミングで、もう少し遅ければ…と思うようなこともあった。生かされているということは、本当に尊いものなのかもしれない。長生きだけが幸せとは限らない時代になったようにも感じるが、生ある限り、自分のやるべきことをやらなければいけないとも思う。
朝夕に感謝を述べる
朝、神棚に向かって、遥拝をし、最後に神棚横にある両親の写真に心の中で語りかけている。額縁の中で微笑んでいる顔を見ると、もう話をすることはできないが、心が落ち着く。
夜も同じようにおつとめ後に、「今日も無事に通ることができたよ。ありがとう。」と心の中でつぶやいている。やはり人はこの世を去ることがあっても、他の人の心の中で生きているものなのかとも感じる。
ならば、自分と接してくれた人々に、あとで思い出して、「私の心の中であなたは生きているよ」と言われるように、人との付き合いを大事にしていきたいとも思う。そうなれるように真実を見極める努力は続けたいとも思う。
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