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逃亡者(小説)

 あなたを見つけるために、何かが足りない。たぶん、あとひとつだけ。たった一つだけが足りない。でも、何が足りないかはわからない。

 毎日そのことを考えているせいか、夢を見た。ぺたん、ぺたんという音が聞こえて、夢の中で目を覚ます。あたりは濃い霧につつまれ、すべての輪郭が淡く曖昧になっている。目の前に自分の指をかざしてみた。指の向こうに生い茂った草が見える。背中にもやわらかな草の感触がある。ゆっくり体を起こしてみると、あたりは薄暗く、早朝か夕暮れかわからない。生い茂った草の向こうに、池が見えた。誰かの気配もする。目を凝らしていると、池にボートが浮かんでいる。舟の上の誰かが、オールを水面にたたきつけている。さっきの音はこの音だ……。オールが水面に触れるたびに、ぺたん、ぺたんという音が響き、少し遅れて水の音も聞こえる。なまあたたかい風が吹き、草をゆらして、わたしの頬を撫でた。遠くにいて、ボートに乗っている人物に覚えがあるような気がするけれど、体も顔も、影になっていてわからない。確かめたくて近くまで行く。服も髪も、湿気を含んでじっとりと重い。砂のようなにおいもする。池のほとりに行くと、近づいたはずの人物は、なぜか遠くで見ていたよりも遠い。ため息をついて、視線を下に落としたとき、自分の姿が、池に映っていないことに気がついた。

 以前住んでいた家には、もう誰もいない。家そのものも、取り壊されてしまってなくなってしまった。夢の中でしかそこには行けない。
 玄関の植木鉢にはバラが植わっていて、一本が大きな大輪の花を咲かせている。クリーム色の花びらは、中心にむかってだんだん濃い桃色になっている。さっと風が吹くと、花は自分の重みでゆらゆらとかしいだ。甘い、果物のような香りが漂う。目を閉じて、花の香りを吸いこんでいると、後ろで気配がした。誰もいないと思っていたのに、わたしのすぐ後ろに、年老いた男が立っている。痩せて、野球帽をかぶって、タバコの匂いの濃い男で、見覚えはない。細い目で、はっきりと敵意をあらわした目でこちらを見ている。目が合った瞬間、男は視線を外した。男のことを知っているような気がした。でも、思いださないようにぎゅっと目を閉じた。強い光を見たあと、目を閉じてもその光が目の奥に残るように、男の顔がしばらく残る。目を開けて花を見ると、花はもうなくなっていた。

 池の周囲を、ゆっくり歩いて回ると五分かかった。端から端の、いちばん長いところでも、せいぜい二十五メートルといったところだろう。小学校の二十五メートルプールのきちんとした四角形を、頭の中で伸ばしたり縮めたりしながら考える。越してきた先でこんな場所を見つけられるとは思わなかったので、驚いた。十一月の夕暮れの空と、赤や黄色に色づいた木を映しだす水面は、冷たい風にゆらめき、空や木の形と色もゆらめいた。
 離れたところに、カモが一匹、ぽつんと浮かんでいるのが見えた。じっとしていて身動きしないので、置物のように見える。小石を手にとって池に投げ入れると、ぽとんという音がして、水の中に吸いこまれるけれど、カモはじっとしていた。離れたところにいても、カモの頭のあざやかな緑色、細かい模様のある茶色の羽が見える。その時、不意に家の靴箱の上に置いていた、カモの置物のことを思い出した。体にほこりを積もっていて、目に入るたび「ほこりをぬぐおう」と思い、そのたびに忘れていたことも。家を出るまでに、カモのほこりをぬぐった覚えはない。家と一緒に、カモの置物もなくなってしまった。すっかり忘れていたことを、突然思いだした。カモは水面をすべるようにゆっくりと、わたしの方へ近づいてくる。カモははっきりと、あなたの声で「ここへ来てはいけない」と言った。

 ガラス窓の向こうは、激しい雪が降っているので白い色しか見えない。鳥の形がぼんやり浮かびあがり、「あ、鳥だ」と口に出したとたん、影は消えてしまった。似たようなことが、以前にもあったなと考える。いなくなったあなたに、名前を呼ばれて振りかえろうとする瞬間、頭の中に大きな疑問符が浮かんだこと(いけない。振りかえってはいけない)。

 「むこう側」へ行くためには、夜の闇の中、うすく光る月に照らされた湖を越えなくてはならない。どろりとした水をながめて、わたしは不安で喉の奥が苦しくなる。水辺に立つ男は年老いていて、痩せて、野球帽をかぶって、タバコの匂いが濃い。細い目に薄笑いを浮かべて立っている。
「むこうへ行くかい?」
 わたしはうなずき、手の中に握りしめていた透き通った石を彼に手渡す。ボートは古く、乗りこむときにひどく揺れる。男はオールを湖の水面にたたきつけるようにして漕ぎだした。こうするほかなかったという気持ちと、もっと別の方法があったのでは? という気持ちが、泥のような水の中で混ざりあう。岸についた瞬間、まばゆい真っ白な光がわたしの目を射た。大きく息を吐いて、わたしはあなたを探すために「街」へと一歩を踏みだす。

 行きたいところがあるけれど、いつも行けるとは限らない。目的の場所についてはじめて「ここに来たかった」とわかることもある。目的の場所へたどりつくには、どうすればいいのか? どの道を進み、どの曲がり角、階段をのぼればいいのか。扉は開けるべきか閉めるべきか? 目の前で閉まるエレベーターの扉にすべりこむべきなのか? いくつもの体験を経て到着する場所もある。あなたはそこにいる気がするけれど、何かが足りなくて、あなたを見つけることができない。あとひとつだけ、何かひとつだけ。足りないものが何かは、やっぱりわからない。