見出し画像

ここにはない風景

 今から二十年以上前、わたしがまだ学生だったときのこと。四条河原町阪急百貨店の四階、雑貨を扱う小さなコーナーに、セピア色のポストカードがあるのをみつけた。見知らぬ外国の風景の写真だった。

 河の近く、ひょっとしたら海の近くかもしれない。馬のいないメリーゴーラウンドだろうか、覆いがはがれ、骨組みが見えているテントがある。テントの近くに、コートを着たうつむいた人物が見える。体をすくめるようにして、どこかへ駆けだす一歩を踏み出したような姿勢だ。人物の奥には白い木馬があって、サーカスか移動遊園地が終わったあとのような風景だ。
 セピア色の濃淡と風景に惹かれて買ったけれど、一番惹かれたのは、その風景になんとなく「見覚え」があったからだ。初めて見たのに、初めてではない感じ……。「知っている」というより、もう少し曖昧な感覚、「夢で見た」という感覚に近い。
 わたしはその感覚を自分の心にとどめ、誰かに話すことはなかった。話すかわりに、ポストカードを壁に貼ってながめていた。ながめていると、セピア色の見知らぬ風景の中に自分も「いた」気持ちになる。その中にいた時の気持ちを、わたしは思いだし、思いだしながら「これは自分の記憶ではない。でも誰かの記憶。誰かの記憶を代わりに思いだしているようだ」という気分になった。

 写真を撮った人が、サラ・ムーンという女性で、ほかにも美しく、なぜか夢で見たような感じのする写真をたくさん撮っているということを知ったのは、すこし後のことだった。

 サラ・ムーンのポストカードを買う前に、ベン・ワットの「north marine drive」というアルバムを聴いた。夜、せまい自分の部屋で、デッキにCDをセットしたあと、壁にぴたっと背中をつけて、リモコンの再生ボタンを押す。しばしの間ののち、耳に最初の音が飛びこんだその瞬間「あれっ?」と思った。初めて聴いたのに、初めてではなく、どこかで聴いていた、という気持ちになる! どういうことだろう? 
 目を閉じて、澄んだ響きのギターの音、やわらかなベン・ワットの歌に耳を傾けていると、頭の中に知らない風景が広がっていく。とても寒い日、海の近くだ。周りには誰もおらず、足元に生える草も枯れかかっている。風が吹くと頬がひんやりと冷えるけれど、嫌な気持ちにはならない。海は凪いでいて、ところどころに白い波が見える、草原の遠くを見ると、モノクロームに煙ったような家がぽつん、ぽつんと建っている。誰もいないのに、なぜかさびしくも不安でもなく、心地いい。いつまでもこの風景の中にとどまっていたい。
 同じようにトレイシー・ソーンの「a disatnt shore」を聴いたときには、海の遠くの空にゆっくりと飛ぶかもめの形を見たし、ウィークエンドの「 The View From Her Room」を聴くときは、わたしは誰もいない静かな部屋の窓から、海や草原の淡い色をながめていた。暗くて散らかった自分の部屋で、音楽に耳をかたむけて目を閉じていると、わたしはいつも別の世界に行けたし、別の世界の風景の中で心地よい気持ちになった。

 サラ・ムーンのポストカードを見て、見覚えがある気がしたのは、錯覚でも妄想でもない。確かに自分が行ったことのある場所だからだ。といっても現実に行ったわけではない。頭の中で行った場所だ。
 そのことに思い至ったのは、ずいぶんあとのこと。壁に貼ったポストカードが変色し、ベン・ワットやトレイシー・ソーンのCDに傷が増え、わたしがほかにいろいろな景色を見たり、音楽を聴きながら、大人になってからのことだ。

 ビュトールの「時間割」を読んでいたとき、主人公が友人と「娯楽場」に行く場面があった。
 大きな建物と建物の間にある、ネオンの看板の出た細い廊下のような建物のなかに入っていくと、電気ビリヤードや人形倒しの設備がある。小説の中で出てくる「市」の縮小版のようなところだ。都会の夜に光る赤や緑のネオン、簡易な娯楽の射的場(古いゲームセンターを思わせる)、タバコの匂い、暗くてよく見えない床に落ちる吸殻、マッチの燃えがら。いらいらしながら射的に夢中になっている友人の背中、小説に描かれていないのに、なぜかその場面がくっきりと浮かび上がる。これはどこかで見たな? そう思ったとき、カポーティの「遠い声、遠い部屋」のカーニヴァルの景色が目の前にあらわれた。空高くのぼり、きらめく打ち上げ花火、まわる観覧車の光の渦。十セント払って入る見世物小屋には小さな姫。空に稲妻が斜めに走って、雨が降る、その場面だ。
 カーニヴァルには行ったことがない、移動遊園地も知らない。なのに小説の言葉が喚起するイメージは、確かにわたしの目に見えた現実で、そう、そのカーニヴァルの喧騒の中には、使い古され得たみすぼらしいメリーゴーラウンドが確かにあった。言葉で「見た」メリーゴーラウンドの記憶は、頭にに残り、サラ・ムーンの写真によって喚起される。

 わたしは知らない娯楽場やカーニヴァルの記憶を、行ったことのない写真の景色でささやかな郷愁とともに思いだし、自分自身の記憶のように大事にしている。不思議で不確か、曖昧な感覚だけど、こういうときにはいつも、目にみえぬ「現実とは別の世界」について考える。暗くて散らかった自分の部屋で、音楽を聴いていたときに見える世界。いつかそこに行ってみたい。ここにはない風景を見たい……という願いは、夢でしか叶えられそうにはないけれど、わたしの生きる世界に、小説や音楽、写真、映画がある限り、別の世界への扉はいつでも開かれているのだと思う。