見出し画像

「友達としての好き」と「恋愛としての好き」の違いをはっきりさせる一つの回答

「友達としての好きと、恋愛としての好きは、何が違うんだと思う?」

先日、友人からLINEが来た。いきなりこんなことを聞いてきた彼女に対して(この人、もしかして俺のこと好きなんかな?)と思ったが、それは全くの自惚れだということが直ぐに分かった。

彼女には、気になっている男がいた。彼のことを面白い人だと言っていて、人間的に『好き』らしい。ただ、その人に対する自分の『好き』という感情が『友達として』なのか『恋愛として』なのか、不明瞭だという。その線引きをはっきりさせたくて、身近な人に聞いて回っていた。

周りの人は何と答えているのか、と聞くと、こんなことを言っているらしかった。

・彼からの「彼女が出来た」という報告を手放しで喜べるか
・一番近くに居たい、独り占めしたいと思うか
・その人のために自分を奮い立たせられるか
・知らん。好きならどっちでも良い

人それぞれのボーダーを有していることもさることながら、それによって個人の人柄が透けて見えるのが面白い。自分も彼女と同じように身近な友人に冒頭の質問をぶつけてみたのだが「独占欲」という回答が得られることが多かった。

さて、誰しもが似たような疑問を持ったことがあると思う。「私はこの人のこと好きなのか?」と。

昔、似たような感情を抱いていたことがあった。当時の自分も、それが「友達として好き」なのか、「恋愛として好き」なのか分からなかった。自分の気持ちをはっきりさせるために「友達として好きなのか、恋愛として好きなのかの違いって何?」と、全く同じ質問を身近な人に聞いて回っていたことがある。

ある友人は「その人の悩みとかを聞いて『私に相談してくれて嬉しい』って思ったら、好きだと思う」と言った。また別の友人は「そいつが『来い』って言ったらすぐに行ける人」と言っていた。自分にとってはどちらも当て嵌まっていた。自分は彼女のことが好きなのかと思った。

ただ、だからと言って「付き合いたい」という気持ちは持てなかった。


「恋愛としての好き」と「付き合いたい」の距離

自分がその人に抱いていたものは「この先の人生を見たい」という願いだった。彼女のことを独占したいとは思わなかった。もし彼女が他の誰かと付き合ったとしても、悲しいとは思わなかっただろう。自分という存在が彼女の人生を左右させてしまうなら、会えなくとも生きてさえくれれば良かった。

当時の自分にとって「恋愛的に好き」と「付き合いたい」は乖離していた。彼女と付き合ったとして、その人の人生を背負う自信が無かった。今思えばそれは、二人の生活を過ごせない無責任さ故の逃避でしかなかった。

25歳になった現在、「恋愛としての好き」と「付き合いたい」の距離はより離れたように思える。この歳になると一層「この先の人生を一緒に歩けるか」ということを考えてしまうから。


一つの回答

結論として「この人と先の人生を過ごせるのか」と考えた時、その人のことを恋愛的に好きだと認知して良いと思う。

男女問わず、仲の良い友人と会っている時に「この人といつまで会えるのかな」とは考えない筈だ。対象について関係を続けていくことの可能性を考えた瞬間、軽微な好意だとしても、その人のことを「友達として」ではなく「恋愛として」好きと捉えていると思う。そこから、一緒に生活をしていけるのか、自分に恋人という存在が必要なのか、と「付き合う」を考える段階に移行するのだろうけど。

最後にすべての梯子を外してくれる、友人からの引用を記す。

まあ、それも人類の傲慢なカテゴライズであって、それにそった可能性の話だよ。地球から自分とその人以外全員消え失せたら、そんなもん全部なくなってしまうから。


冒頭に戻る。彼女から「友達としての好きと、恋愛としての好きは、何が違うんだと思う?」とLINEが来た。自分は「チューしたいかどうかじゃない?」と答えた。それが彼女にウケた。自分の回答をいたく気に入った彼女はそれをアナウンスした。今でも、彼女とのLINEのトークの上部には「チューしたいかどうかじゃない?」が燦々と存在感を放っている。


【お知らせ】

文学フリマにて作った本をこちらで販売しています。
僕が書いた小説が3つ、梯子を外してくれた友人が書いた小説が3つ。
それぞれのエッセイ3つを合わせた全300ページの小説です。
タイトルは「無自覚デコンストラクション」


この記事が参加している募集

#文学フリマ

11,705件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?