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【戦国イクメン】独眼竜と恐れられた伊達政宗が見せた長男秀宗への親心

今も昔も変わらぬ父と息子のすれ違い

昨今、国を挙げて働き方改革を含めた父親の育児参画の推進など、父親と子供の関係性について、とても関心が高まっています。

かつては、父親と息子は、思春期を境に感情的な対立をし、へたをすると父親が死ぬまで、その溝が埋まる事がないままであった事も多かったのではないでしょうか。

我が家も似たようなものでした。ある日、親父と喧嘩をして、正式な和解をしないまま、もやもやとした関係が続き、数年後に親父が病で亡くなってしまいました。

遅きに失した感がありますが、どこかで一対一で話す機会を持てばよかったなと後悔をしています。

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それから20年後、偶然に見つけた独眼竜政宗こと伊達政宗と息子たちの逸話に、父親と息子の関係性の良好にするためのヒントがある事に気付きました。

今回は、伊達政宗とその息子による盛大な親子喧嘩とその顛末について掘り下げたいと思います。

戦国時代の殺伐とした父子関係

戦国大名が生き残って家名を残す時に、やはり避けては通れないのが事業承継の問題です。

そして、多くの大名たちが、その時の外部環境や内部環境を考慮して、承継者の変更を断行しています。いわゆる廃嫡です。

有名なところでは、武田信玄や徳川家康が長男を自害させる形で廃嫡を行っています。

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武田信玄の場合は、桶狭間の戦いで敗死した今川義元の領地への進出の際に、義元の娘を妻とする長男の義信と対立があり、自害に追い込んだと言われてます。

徳川家康の場合も、今川義元の敗死によって、織田信長との関係性をおもんばかって今川家と所縁のある長男の信康を自害させたと言われています。

このように多くの戦国大名は、環境の変化によって、廃嫡を行う事は、御家の存続や繁栄のために当たり前のようになっていたを思われます。

そして、廃嫡された子供の多くは追放や自害という結末になります。

しかし、この時代において、異色な対応を取ったのが、独眼竜政宗こと伊達政宗です。

外部環境の変化に翻弄される秀宗

この時代、主従関係を結んだ場合に、主家に子供を人質として差し出す事がよく行われていました。
政宗も、豊臣秀吉の軍門に下った時に、人質として3歳の長男秀宗を伏見城に送ります。

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秀宗は、秀吉の猶子として育てられ、秀頼の小姓として伊達家および豊臣政権での将来を期待されていたのですが、秀吉の死後に起きた徳川家康による政権奪取によって、その立場は大きく揺らいでしまいます。

関ケ原の戦いで家康率いる東軍が勝利すると、今度は、徳川家の人質として、11歳の秀宗は江戸に送られます。

秀宗が、3歳から続く人質生活を耐えられたのも父のため、自分が将来継承する伊達家のためだったと思います。

しかし、政宗は、徳川政権の樹立が確定した1609年ごろに、仙台藩における秀吉色を消すために、秀吉に育てられた秀宗を廃嫡し、次男の忠宗を正当な後継者に指名します。

政宗の親心、子の秀宗に伝わらず

秀宗の心中はどんなものだったのか想像がつきませんが、この事はその後の父子のトラブルの原因になります。

ただ、政宗も秀宗の苦労をないがしろにするつもりはなかったようで、大阪の陣に20歳の秀宗を伴って出陣し軍功を挙げて、自分が戦功としてもらった伊予宇和島10万石を、秀宗に与えて別家を興せるように配慮をしました。

とはいえ、それは政宗の勝手な親心なだけで秀宗が納得していたとは言えないのが現実でした。

常に、政宗が不穏な行動を取るため、常に死の恐怖を感じながら人質の秀宗は生きてきたので、正直なところ、苦労知らずの忠宗が62万石で、苦労ばかりの自分が10万石というのは、相当傷ついていたようです。

そして、秀宗は遅れてきた反抗期にのように、伊予宇和島藩を立藩してから政宗との対立を深めます。

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発端は、秀宗の家臣団の派閥争いですが、それが政宗と秀宗の争いへと発展し、最終的には政宗が秀宗を勘当するに至り、さらに伊予宇和島藩の取り潰しを幕府に申請するほどにヒートアップします。

まさに、戦争に匹敵するほどの国をあげた盛大な親子喧嘩です。

政宗と秀宗の直接対決

ここで、幕府の老中の土井利勝が仲裁に入って、政宗と秀宗を対面させて、本音の対話をさせます。

この時に、秀宗は、今まで言えなかった自分の苦労や思い、そして親である政宗に対する今までの恨み辛みを、直接、目の前の本人にぶつけます。

政宗も初めて秀宗の心境を聞き、大きく反省するところがあったのかもしれません。まあ、政宗の事なので、もしかすると無かったかもしれません。
ただ、この対面をきっかけに、政宗は秀宗の想いや考えを深く理解をして、秀宗への勘当を解いて親子として和解をします。

この本音の対話をして以降、お互いで和歌を交歓したり、政宗が「唐物小茄子茶入」と「柴舟」などを贈り物したりと政宗と秀宗の仲は親密になりました。

本音の対話の重要性

確かに、政宗が秀宗に掛けた苦労はかなり大きなものだったと思います。

しかし、隣国の最上義光が、徳川政権の樹立以降に、秀吉色のある長男の義康を廃嫡し暗殺してしまっている事と比較すると、秀宗のために別家を興すのは、並々ならぬ努力や資金も必要とする事を考えると、かなり子供思いの対応ではあると思います。

ただ、結局のところ、父子での本音の対話が、それまで皆無に近かったのが問題だったのではないでしょうか。

政宗の心の内が、全く秀宗には届いていない事で、すれ違いを生み、幕府を巻き込む盛大な父子喧嘩へと発展したのだと思います。

現代においても、仕事の忙しさから、子供と対話が不足している家庭は多いと思いますので、後々の大きな家族問題の火種とならぬように、幼少のころから少しの時間でも良いので対話をする機会を持つ事をお勧めします。

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また、この伊達家の逸話は、父親と息子は遠慮したり恥ずかしがらずに、本音の対話をする勇気を持つ事が大事だと教えてくれている気がします。

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