信長のパーパス|天下布武 信長が掲げた「天下布武」の成功
信長が掲げたパーパス「天下布武」
昨今、海外及び日本においても、グローバルな活動をしている企業が「パーパス」を制定する事例が増えてきています。
企業は今まで生活を物質の面で満足をさせる事で社員のモチベーションアップを図っていましたが、社会全体の意識の変革によって金銭や待遇以外でのモチベーションアップが必要となってきました。
特に、1980~1995年に生まれたミレニアル世代や、それに続く1996年~2015年に生まれたZ世代にとって、給料やボーナスの多寡だけでは十分な働き甲斐を感じられなくなっています。
そんな彼らに働き甲斐を感じ幸福感を満たせるために企業が提示するものがパーパスと言われています。
パーパスとは何かという点では、未だに曖昧な点もありますが、目的や存在意義と訳される事が多く、概ね「その企業独自に提供できるもので、社会に対して貢献できる内容」というイメージだと思います。
「自社の特徴による社会貢献」が、その組織のパーパスであり、いわゆる存在意義となります。
グローバル企業のパーパスの実例
企業の実例を見てみると、下記のようになっています。
ソニーグループ
「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす」NIKE「スポーツを通じて世界を一つにし、健全な地球環境、活発なコミュニティ、そしてすべての人にとって平等なプレイングフィールドをつくり出す」ユニリーバ「サステナビリティを暮らしの“あたりまえ”に」
従業員たちは、企業の掲げるパーパスと、自分の中にあるパーパスとが合致する事で、働くことへのモチベーションへとつながるようです。
お金のために働くのではなく、会社を通じて社会に貢献しているという実感が働き甲斐へと直結するようになってきました。
多様性が求められるグローバル企業では、従業員が働き場所を決める重要な要素となってきています。
ただ、今までの企業や組織がパーパスを持っていなかったのかというと、そうではなく企業のホームページにパーパスと明言していないだけで、暗黙知のように示されていたり、何となく共有されていました。
現在のパーパスのような社会全体への貢献という視点が弱く、限られた範囲の中での自社の利益や成長に直結したものが多かったのかもしれません。
高度成長期の日本などでは、自社の利益や成長が、自身の給与やボーナスなどの待遇に反映される事で働き甲斐となっていました。
どのような企業や組織でもパーパスらしきものを持って活動を始めているはずです。
戦国時代の織田信長も組織を運営し拡大していく上でパーパスらしきもの掲げていました。
それが、あの有名な「天下布武」です。
幕府再興のための天下布武が支持される
織田信長が、天下布武の印章を使い始めたのは、美濃の斎藤氏を攻略し、井ノ口という地名を岐阜と名付けた1566年ころです。
後の15代将軍となる足利義昭からの支援要請を受けており、幕府再興へと着手するための大義として掲げたのが始まりと言われています。
以前までは、信長が日本全国の統一を目的としていたと考えられていましたが、現在では、義昭を伴い京へ上り、五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国)を室町幕府の統制下に戻すことだとされています。
この時点での天下が示す範囲は、現在の京阪神奈ぐらいの狭いエリアの事でした。
また布武という言葉についても、これまでは織田家の武力で平らげるという捉え方でしたが、七徳の武を布き安定をさせるという意味だったそうです。
信長は、自身の軍事力・経済力と幕府再興の大義の元で、秩序ある安定した社会に戻す事を目的としていました。
信長の幕府再興による天下布武というパーパスは一定の支持を得ることができました。
その結果、幕府を壟断する三好三人衆を阿波へ撤退させる事に成功し、ひとまず義昭を将軍に就ける事に成功しました。
これは、信長のパーパスが自身の家臣だけでなく、周辺の大名や勢力であるステークホルダーからも支持をされた結果です。
南近江の蒲生家や大和を拠点にする松永久秀なども、この頃に織田家と同盟関係となりました。
また、細川藤孝、明智光秀、和田惟正などの有能な幕臣たちとの関係性も構築できました。
信長の天下布武に賛同したものたちが麾下に集まる事で室町幕府再興はスムーズに成功しました。
一次的にではありますが、信長が設定したパーパスは一定の成功を収めました。
まとめ
信長が掲げた幕府再興による天下布武というパーパスによって、織田家の家臣団は私利私欲の戦いから、幕府再興という大義ある戦いへと昇華されたことでモチベーションが高まったと思います。
朝廷や幕府から信任を得て支持された事で、尾張や美濃を支配する上での正当性を裏付けする事もできました。
当初の信長は、天下布武の旗の元、五畿内の政治は義昭が率いる幕府に任せ、織田家はその後援者という立場で東海エリアでの勢力拡大に努めようとしていました。
しかし衰えきった幕府権力では五畿内の統制には無理があり、また義昭が行う裁定や処置への反発も起こり、三好家などの反信長派に追い詰められて義昭が裏切ります。
次回は、幕府再興による天下布武から織田家による天下布武へとパーパスが変わった結果を見ていきたいと思います。
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