信長のパーパス|天下泰平 260年の安寧を生んだ家康のパーパス
平和な時代を生んだ家康の「合議制と法令による天下泰平」
徳川家康が始めた江戸幕府は、260年もの平和な時代を生み出します。
局所的な大坂の陣や島原の乱を除くと、ほとんど大きな戦乱はありませんでした。
天下泰平と呼ばれた平和な期間は、家康のパーパスを全国の大名が長い間支持し続けた事で守られていました。
そのパーパスは「合議制と法令による天下静謐」です。家康も、政権運営をする上で天下静謐を最大目標として取り組んでいました。
後世の視点からは区別しやすくするために「合議制と法令による天下泰平」としてもいいかもしれません。
家康は、日本を応仁の乱から続く長い戦乱の時代から脱却させ、天下泰平の世にするたために、信長や秀吉の失敗を教訓として、江戸幕府の運営に臨みました。
今回は、信長と秀吉の失敗から学んだ点を踏まえてみていきたいと思います。
パーパスの変更には時間をかける
信長は、「幕府再興による天下布武」を掲げ、畿内の諸勢力の協力を得ましたが、将軍義昭との関係悪化により「織田家による天下布武」へと切り替えた事で、畿内の諸将の謀反に悩まされることになります。
そして、遂には、近畿方面軍の軍団長であった明智光秀に斃されてしまいました。
家康は、この信長の失敗を間近で見ています。
実際、家康自身も命からがら堺から三河まで逃避行することになりました。
家康は、1600年に関ヶ原の戦いで勝利しても、新しいパーパスの下地造りが完成するまでは、秀吉の「天皇の威光を背景にした天下静謐」で維持します。
逆に征夷大将軍の官職を得るなど、秀吉の後継者であることを証明するために「天皇の威光」を利用していきます。
家康は、1615年に豊臣家を滅ぼすと、秀吉の「天皇の威光を背景にした天下静謐」からの脱却を図ります。
同年9月に「禁中並公家諸法度」を発布して、朝廷を幕府の統制下に置き、政権運営における天皇の威光を排除しました。
パーパスに合わせた組織づくり
豊臣政権は、秀吉の独裁的な体制が強かったため、2度に及ぶ唐入りという外征を誰も止められませんでした。
その結果、日本だでなく、朝鮮や明などにも大きな負担を強いる事になりました。
これをきっかけに諸将の不満が爆発し、内部抗争が始まり関ヶ原の戦いにまで至ります。
秀吉の失敗の原因は、独裁体制の暴走を止めるシステムがなかった事だとも言えます。
家康は、この失敗を踏まえて権力が将軍一人に集中しない組織づくりを行います。
江戸幕府では重要事項の決定においては複数の老中による合議によって裁可するようにしました。
これにより権力の暴走を防ぎ、決定における公平性や透明性をある程度担保できるようになりました。
この決定の前提には「武家諸法度」「諸士法度」「諸宗寺院法度」など法令を基準としています。
このように「合議制と法令による天下泰平」というパーパスに合わせるように幕府の組織と体制を構築していきました。
まとめ
徳川家康の一般的なイメージは、忍耐や古狸など、信長や秀吉のような斬新さや派手さはありません。
どちらかと言えばケチというイメージで、古参の家臣たちにも領地を多く与えることはなく、吝嗇家という言葉がぴったりな人物です。
ただ、これは秀吉が、徳川家に大領を与えて、政権を奪われるきっかけになった事への対策でもありました。
家康は、信長や秀吉の失敗を教訓として堅実に政権を運営していきました。
それはパーパス(野望)を再定義する際も、先人の失敗を教訓とし、注意を払いながら進めました。
また、パーパスに存在意義という意味があるように、組織の存在意義と密接に繋がっていきます。
パーパスから外れるという事は、その組織の崩壊を意味しています。
江戸幕府も、幕末になると従来の合議制を捨てて独任制を採用し、各藩が武家諸法度などの法令を無視するようになり、国内の統制が取れなくなりました。
時世の流れに乗って「合議制と法令による天下泰平」を放棄したものの新しいパーパスを掲げる事に失敗しました。
そして、後の戊辰戦争では井伊家や譜代大名たちの離反に会い、江戸時代は終わりを告げました。
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