物事への、拘りと執着
みなさんにも、よい意味で拘っていることが 1つや2つあるでしょう。
それと同時に、それが邪魔してうまくいかないこともあります。
今日は、そんな事を感じたお話。
「なんで、そんなことに捕らわれていたのか?」
なんて、ふと思うことありません?私は最近よく感じるんです。目の前のことに一生懸命に突っ走って、「私が思い描く結果」に走るためにいろんなことを選択している時には、どうしても譲れない「拘り」ってのがある。
たとえば、字幕でいうなら「エンターテイメント性」をどうしても重視したい。画像も合成したいし、プロジェクターのブルースクリーンが一瞬でるのも嫌だ。できるだけリアルタイムに文字は出したいし、それを生業としている「マニュピレーター」ではないしても、できるだけ近い品質で場を作りたい。
そのために、事前準備もするし、リハーサルも何度もやるし、使わないだろうとわかっていても「何かあったときのために」と、数台の予備機材を車に積んで現場に向かうことは日常茶飯事だったりします。
でも、この拘りが過ぎると、弊害がでてきます。そう、「中途半端が許せなくなる」んです。
それは、自分に対しても、ほかの人に対しても。要は手が抜けなくなる。
この状況が続くと、アウトプットを維持し続けようとして無理し自分が壊れるか、アウトプットが安定できずに品質に大きなばらつきが出るか、あるいは成長盛りの周りの人を潰していくことになります。
そして、他人に頼れなくなるし、仕事相手も育たず、他人からも頼られなくなる。もはや、デスマーチ。
こんなとき、ふと全てから手を離して静観してみるのです。
すると、あら不思議。拘らなくなった瞬間、相手や現状をしっかり受け止める「余力」が生まれて、プラス思考で話ができるようになります。
結局、状況を把握したり、相手や状況を許容したり、前向きに進んでいくためには、変な拘りを捨てて余力をつくることが必要だと言うことです。
結局、拘っているつもりが「執着」にかわっていたのでしょうね。
いろんな場面で一歩引いてみることって大事なんでしょう。
仕事の場面でも、相手がやってくれたことがたとえ50%でも、「今度はこうしてみよう」みたいな会話は、この余力から生まれてきます。
あなたの生活には、この「余力」は十分ありますか?
開発したり研究したりするのに時間と費用がとてもかかるので、頂いたお気持ちはその費用に補填させていただきます。