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話し合いができない支援者たち。

 昨年(2020)の9月にこちらの記事で言及した、「(前略)2020年2月には、某有名老舗フリースクールによる性暴力事件が発覚した。」に関連して:
 この(2021年)6月24日に、その当該のフリースクールの代表者が理事長を退任した、という報道があった。
 そのことを報じた某新聞社サイトへのリンクや引用や出典を示すことは、名前バレする(当該団体を特定してしまうことになる)ので控えるが;
 その退任した元理事長こそ、今から30年前の私に、「あなたのことは良くわかったから、余所へ行ってください」と言い放った、その人だ。
 レイプや暴力をやらかしたフリースクールについては、過去においても、その当該団体以外にもかなりあった筈なのだが、現在、それらの記事をネット検索から拾ってくるのは極めて難しい。
 だが一つだけ確実に言えるのは、そうした表面化した事件というのは、“氷山の一角”、“ヒヤリ・ハット”、“Gを一匹見たら百匹いると思え”ということである。

 今から30年前に、私がその当該団体から不適切な対応をされたとき、話し合いを求め、問い合わせる私に対して、その当該団体のスタッフは、延々と喋り続けてこちらが話す暇を与えなかったり、私が掛けた電話を即刻、切るなどで、まともに取り合おうとしなかったのである。(もしかしたら障害に対する差別もあったのかもしれないが。)
 件の元理事長からは直々に丁寧な手紙を頂いたものの(大変お忙しいところありがとうございました)、肝心の問い合わせ内容については「心当たりがありません」とのことだった。
 つまりこの元理事長は、スタッフのやらかしていたことを、全く把握していなかったと言えるだろう。(逆に言えば、良くも悪くもスタッフたちの“自主性”を尊重していたのかもしれないが。)

 私は昨年(2020)2月に発刊した拙著『自閉女(ジヘジョ)の冒険――モンスター支援者たちとの遭遇と別れ』(遠見書房)の「おわりに」のpp.217-218で、こう↓書いた。

「 もし、本書に登場する(今日ではNPOに相当する)支援団体の類が、そこで生じた問題の話し合いに応じてくれていたなら、必ずしも本書を執筆しなくてもすんだと思う。当時は「発達障害」という言葉はまったく知られていなかったので、ある程度は仕方のなかったところもあるにせよ、NPOといえども不完全な人間の集まりだから、どんなに善意で良心的に運営しているつもりでも問題は出てくるし、とりわけ本書Ⅱ章で描いたような、問題のあるスタッフを抱えてしまった場合はとくにである。だがNPOには(コンシューマー相手の私企業と異なり)利用者やクライアントからの苦情を受け入れる窓口が存在しない。だから企業同様に、NPOにもそれに相当するものがあればよい(①)。それでも埒が明かなかった場合には(「消費者相談センター」のような)NPOとのトラブルを協議する第三者機関が必要である(②)。だがそれでもダメなら、本書のような告発本を書くしかない(③)。本書の場合は、①②とも現時点までに見当たらないので、やむなく③の方法を採らざるを得なかった。」

 ここ↑で出てくる「Ⅱ章」というのは、まさにその当該団体について私が経験したことを書いた章である。

 その当該団体は、例のレイプ事件が生じる更にその10年前から、彼らのもとに寄せられる相談内容を食い物にして、投稿内容を勝手に剽窃した上で、それに反対意見をつけて自分達の刊行物で載せたり、相談の代わりに出した投書を俎(まな)板に載せて批判するということをしていた。(同書pp.95-97)。
 それだけに留まらず、彼らは私が書いたものを「事実と違う」と決めつけ、その元理事長ご本人が直々に私に電話で、「私たちスタッフ全員で説明いたしますので、こちらにいらして頂くことはできませんでしょうか?」(つまり、実質的な吊し上げ宣言!)と仰ってきたりもした。(同書p.142)
 更には、彼女は私の言説について、「妄想」「空想」と決めつけたこともあった(同書p.144)。
……と、ざっとこんな風だから、彼らの不祥事がなかなか表沙汰になるべくもない。

 私がその団体から“ひどい目”に遭ってから、その団体でレイプ事件が発生するまでに、およそ10年ほどのタイムラグがある。
「割れ窓理論」(「軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論」=Wikipedia)という考え方があるが、私が“ひどい目”に遭った時点で、もし、すぐに世の中に向かって、その団体の問題点などに関して声を上げていたならば、あるいはもしかしたら、そのレイプ事件も未然に防げていたかもしれない……と思うと複雑な思いになる。(もっとも、それが実際に可能だったかどうかとなると、また別の問題になるのだが。)

 ライターで障害当事者でもあるみわよしこ氏はそのnote記事のなかで、こう述べている。 

「このような場には、自らが癒やされることを求めて関わる大人が入り込みやすいのです。「性被害は受けなかったものの、支援者や場の責任者に傷つけられて去った」という経験なら、障害や不登校の当事者から数回聞いています。そりゃ、あるでしょうね。大人の障害者である私も、そういう目にはしょっちゅう遭ってますもん。「ありうる」ということは織り込んだ上、ヤバいなりゆきを避けることで自衛せざるを得ません。」

https://note.com/3rings/n/n73b34d53439b

と述べているが、もし、みわ氏が「支援者や場の責任者に傷つけられて去った」という経験を「障害や不登校の当事者から数回聞いてい」るのなら、是非、そのことについて取材して書くなり告発するなりして公開することが、その種の団体で(今後)生じるかもしれない、“重大インシデント”“アクシデント”を未然に防ぐための手立てになると思う。

 件のレイプ被害者は、裁判に使える証拠を手にすることが出来たという点では、不幸中の唯一の幸いと言っていいのかもしれないが、中には、証拠を手にすることができなかった故に、涙を飲んで、裁判や申立てを止む無く諦めざるを得なかった事例もきっと多いのだろう。
 でも私も決して、泣き寝入りした訳ではない。
 当該団体の特定を避け、匿名化したうえで、私は当該団体を含む支援者たちとの関わりを、昨年(2020)2月、こうして本にして出版した。


 いわゆる支援者たちが主宰する居場所は、決して理想の居場所なんかではない。
 フリースクール出身者によるこの記事によると、そのフリースクールを、あたかも素晴らしい場所のように褒めちぎっている。が、この人のまた別の記事では、そのフリースクールに馴染めなかった人を、こう↓悪く書いている。

「 これは、どちらかというとネガティブな話となります。同じフリースクールの生徒で、学校だけにとらわれて生きていた人がいました。彼はいつも、「明日から学校へ行くんだ」、あるいは「学校は行かないけど、バイトするんだ」と言っていました。やるんだ、やるんだと言っては自分を責めて、結局何もできない。フリースクールで勉強もしないし、楽しむこともしない。彼は学校に行っていない自分を否定しているから、同じように学校へ行っていない私たちのことも否定する。だから友だちもできません。/ おそらく、彼ではなく親が学校に囚われていたのだと思います。「そんなところは早くやめて学校へ行け」と親から言われ続けて、彼は自分のことを否定していたのでしょう。ある日突然、彼はフリースクールにも来なくなってしまいました。」

……と、この人は「学校に囚われている人」を批判するが、それは単に価値観の相違にしか過ぎないのであって、わざわざ批判する案件でもないと思うがどうだろう。
 このように、少なくともそのフリースクールは、異質な者、自分達の価値観と異なる者、自分達というグループに馴染めない者を排他、疎外する文化を持った組織なのである。
 そうした居場所をいじめや犯罪の場にしないためには、第三者によるオンブズマン制度が必要だろう。
 そうでなくても、支援者やいわゆる居場所やフリースクールで傷付けられた人、何等かの被害に遭った人、馴染めなかった人の《相談の場》が必要だと思う。
 少なくとも、フリースクール側の横暴に対し、勇気を出してその団体を提訴し、その団体に関する問題提起の機会を授けてくれた、そのレイプ被害者に、心から感謝の意を表したい。◆

#不登校 #支援者 #居場所 #フリースクール #発達障害 #相談

(2022.10.22 追加しました)

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