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「未定の遺産」としての戦時体験(募集 8月15日の日記)

「戦争はなくならん。それでも、戦争させない方に持っていかないといけん」

そう孫に語った祖母は、戦後はじめての海外旅行で真珠湾を訪れ、亡くなった米兵の記録資料と海の底に沈んだ船を長いこと見つめていたという。しかし、それ以上たずねても「もう忘れてしまった」という言葉しか返ってこなかった。

録音された祖母の声を繰り返し聞きながら、僕は強制収容所での体験をついぞ語らなかったハンナ・アーレントを思い起こしていた。語られる記憶と、語られない記憶。語りたい記憶と、語りたくない記憶。語ることのできない記憶。「記憶を辿る」行為には痛みが伴うものなのだ。それを強要することは誰にもできまい。直接その場に居合わせなかった僕には、話を聞き、語られる言葉の背後に広がる「語られない景色」を想像することしかゆるされていない。

そうした「限界」を受け入れた上で、戦争を体験していない僕たちはいかに他者の記憶を受け継ぐことができるだろうか。

「受け継ぐ」という行為は、「受ける」と「継ぐ」の二つのフェーズに分解することができる。「いかに継ぐか」という議論はこの80年間で何度も交わされてきたけれど、「いかに受け取るか」という視点はほとんど議論されてこなかった。

「受け/継ぎ方」には二つの方法がある。一つは、他者の体験をそのまま受け/継ぐこと(例えば、歴史の教科書や体験談)。もう一つは、他者の体験を自分の現実や課題に創造的に賦活して受け/継ぐこと(例えば「日常をうたう」のプロセス)。この二つの方式は、他者の体験に「ついて」語ることと、他者の体験に「よって」語ることという二つの「継ぎ方」を導く。

すでに多くの先人が指摘するように、他者の体験をまるごと実感として継承することは不可能である。戦争を直接体験した世代がいなくなるこの先数年間に、「いかに受け取り/いかに継ぐか」という方法論をいたるところで試し・共有し・確立することが、戦争を体験していない我々世代の共通の課題であろうと思う。

それぞれに固有の戦時体験は、我々の世代にとって、あるいはこれからの世代にとって、いまだ「未定の遺産」として存在している。我々がそれをどう受け取り・継いでゆくかによって、戦時体験は意味のあるものにもないものにもなるだろう。

「戦争しても、勝っても負けてもいいことないよ。お父さんたちの世代は全然知らんのやからね。あんたたちがどう受け止めてね、もうしないように持っていくか。もうそれしかないよ。今の人は戦争させないっていう方に持っていかないと」
(祖母へのインタビューより)

#未来のためにできること

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