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僕たちはなぜ記憶を形に残すのか

「これから世界中のいろんな森に入るたび、見えるものが変わっていくと思う。それは見えていなかったものが見えるようになることでもあるし、今しか見えないものが見えなくなることだとも思う」

渡英前夜、西日が射す部屋でお互いの本について言葉を交わした帰り道、「僕たちはなぜ記憶を形に残すのか」という問いに思いをめぐらせていた。

一つは、今この時が存在したことの証を残すため。確かに過ごした時間、目にした景色、交わした会話、生まれた感情は、形にしなければすぐにどこかへ消えてしまう。ひどく忘れっぽい僕たちは、言葉や写真を駆使して確かに存在した「今」が忘れ去られることに抵抗する。

ただし、そこには小さな違和感がある。残すために選ばれる「今」があるということは、選ばれない「今」もまたあるということだから。映画『PERFECT DAYS』でヒラヤマが「写り損じた過去の写真」を破り捨てるように、選ばれなかった無数の「今」は一体何を意味するのだろう。選ばれた「今」が、選ばれなかった数々の「今」を想起する手がかりになるような表現はどのようにして可能だろうか。

「これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……」
(サン=テグジュペリ『人間の土地』)

もう一つは、いつかの未来から「今」を引用できるようにするため。かつての出会いを、出来事を、決断を、言葉や写真の光に縁どることで、不在の者たちや過ぎ去った夢を「今この瞬間」に呼び返すことができる。過去の事実は変えられないが、過去の意味は何度でも付け直すチャンスがある。

未来は記憶のひとつのバージョンだ。記憶を創造的に引用することで、僕たちは次の一歩を踏み出すことができる。あるいは、必ず来る危機の瞬間にひらめくような想起を捉えるために。もちろん未来から引用されない「今」も数多くあるだろう。けれども、未来の自分のために、あるいはまだ見ぬ未来の友人のために、記憶の引用可能性を開いておくことが重要なのだ。

「新たな光が私のうちに射してきた…その光のおかげで私は、文学作品の素材はことごとく私の過去の人生にあることを悟った」
(プルースト『失われた時を求めて』)

「人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いて行くことだ」
(宮本常一『民俗学の旅』)

古代ギリシャにおいて、「読むこと」を指す言葉「anagignosko」は、「再び集める・想起する」ことを意味していたという。「今この時」をすっかり忘れた何十年後か、何百年後か。ふと本棚からこの本を手に取り、ページを開いた時、記憶の底に沈んでいた時間が鮮やかに息を吹き返す。固有の時間と固有の時間が時を超えて出会うその瞬間、写真に写るひとすじの光は、飛行艇に見えるだろうか、星に見えるだろうか、それとも...

「時間というものは常に一人の人間のなかに流れつづけています。別の人間のなかにも流れつづけています。人間と人間がかかわっていく関係というのは、そういう固有の時間性が接触したり、あるいは離れたり、そして再び接触したり、といったなかから生まれるのです」
(東松照明『長崎曼荼羅』)

きっと、僕たちは忘れないために残すのではない。忘れてしまってもいいように、いつでも思い出せるように、そして何度でも語り直せるように、「今」の記憶を本に託して綴じるのだ。

「さあ、握手しておくれ。そうだその意気、がっちり力強くな。よしよし。そして縦に手を振る。これでよし、別れの握手完了だ。時の果てまで効く握手だよ」
(ポール・オースター『ムーン・パレス』)

託された過去がどんな意味を持ちうるかは、これから先どんな道を歩んでいくかにかかっている。だから、僕らは「ほんとう」に向かって生きねばならない。きわめて個人的な光の記憶を軌道に変えて、彼女は流れる星のように次の土地へと旅立った。

陽が落ちた目黒川の遊歩道をひとり歩きながら、彼女は変わりゆくことを肯定してくれる人だ、と思った。人には二つの根源的な欲求がある。「根を持つこと」と「翼を持つこと」の欲求だ。根が深く・広く大地に張っているからこそ、僕らは遠くまで飛ぶことできる。

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