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筆順に寄せて − 型、個性、自由

昔の話になるけれど、中学生の時、国語の先生が「里」と云う字を、筆順の説明をしながら、黒板に書いたのを思い出す。試験の答案用紙に変な形の「里」が在ったためである。先生は、
 (A) 「甲」と書き、続けて「二」を付けられた。
これが正しい筆順であると。また、
 (B) 「日」と「二」を先に書き、最後に縦線「|」を書かれた。
その生徒の筆順である。確かに前者(A)の方が整って美しく見え、なるほどと思った。活字と違って、手で書いた字は画と画との繋がりが分かり、それが美しさにも関係しているようだ。筆順は大切であると云うことがこの時初めて分かった。

そう云うことは、筆順のややこしさうな字、例えば「飛」という字を挙げてみるとよく分かる。この字を初めて見た者が、単にその形を真似て書いても、美しい字にはならない。しかし筆順を習うと、いっぺんに形が整ってくる。

ところで一つの字に筆順は一つだけとは限らない。実際「里」には、伝統的に上の(A), (B)二通りがある。今学校では、(A)の筆順を教えているようだが、平安時代には、(B)の筆順で書かれたものが多いと云う。文字は一画一画書くものであるが、同時にその字全体の形が既に心の中にイメージされていなければ、美しい字は書けないだろう。かの生徒にも、字全体の形は頭にあったと思うが、まだ字の形を整えるところまで、美意識とか感受性が充分に育っていなかったのだろう。

漢字なんてどんな筆順で書いても読めればいいと云えばそれまでであるが、なぜ筆順が問題なのか、なぜ必要なのか、重要なのかと云うなら、「…筆順は長い間の筆写によってだんだん固まってきた順序である。従ってこれらの筆順どおりに書けば筆の運びが自然で整った美しい字の形に書くことができる」(註1)からである。

では、筆順と文字の美しさにどんな関係があるのだろうか。日本の伝統芸能には「型」と云うものがある。能、歌舞伎、それから華道や茶道や柔道にさえ型がある。型なくしてそれらの美はない。だから長い時を経てできた筆順は型と言ってよいだろう。では、型とはどういうものか。型は個人を超えたものである。柳宗悦(註2)は「茶道を想う」と云う一文にこう記している。「…茶は猥(みだ)りに個人的好悪を許さない。それは単に個人の嗜好に止(とど)まるが如き小さなものではない。茶道は個人のことを超える。茶道の美しさは法の美しさである。(…中略)『茶』は個人の道ではなく人間の道である。」

現代は個性が重要視される。それはそれでよいけれど、また別の見方、型と云うような《個人を超えた》見かたもあるのではないだろうか。(註3)
個性は色に喩(たと)えることができる。しかし色がある前に光があるだ。本来の個性とは、その光を観て、輝かせる力なのである。ある詩人がこう言ったそうだ。「主張がパーソナルであればあるほど、それはユニバーサルなのだ」と。パーソナルとは個人的、ユニバーサルとは宇宙的あるいは普遍的と云う意味である。ジャズ・ピアニストのキース・ジャレットも言う。「ほんとうにパーソナルに感じられるものには名前もイメージも性格も個性もない。」これも同様のことを言っているように思う。内面深くの個性から生まれたものには、普遍性があるのだ。だから、誰もが感動するのである。単なる個人的趣向ではないのだ。芸術的な観点からは、本来の個性とは、普遍性を見出(みいだ)す素質・感性なのだろう。

普遍的なものはまた不朽であり永遠である。過ぎ去る時間は永遠と謂わない。むしろ永遠は瞬間の輝きにあり、個々人の心に留まる。ファウストは言った。

己は「刹那」に向つて、
「止まれ、お前はいかにも美しいから」と叫びたい。
己の此世に残す痕は
劫を歴(へ)ても滅びはすまい。
さう云ふ大きい幸福を予想して、
今己は最高の刹那を味ふのだ。(註4)

一方、個性について親しみやすく語るのは、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴」だろう。

私が両手をひろげても、
お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすつても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがつて、みんないい。

《みんなちがって、みんないい》という言葉からは、自分と他の価値の大きさ、他に対する尊敬、この世に生まれた喜び、など浮かび上がってくる。

ところで「燃えよドラゴン」(Enter The Dragon)でブルース・リーは、こんな問答をしている。師が問う「究極の技とは何だ。」答えて「型を持たぬことです。」(技、型と訳しているが、元の英語では両方ともtechniqueと言っている。)彼にとって個々の技はどうでもよい、ただ究極の目標、中心のみを見ている。その中心にいれば、何にでも自由に変化できるのである。続けて師が問う「では敵の前で何を思うか。」答えて「敵などいないと。」さらに師が問う「何故か。」彼の答えを意訳するとこうである。

“自分は常に覚醒している状態にあり、すべてが見えている。それゆえ誰にも妨げられない自由な動きができる。相手が押せば引き、引けば押す。攻撃するという意識もない。ただ自然の流れに任せていれば、必然的な動きだけになる。そこには意図的な自分がいない。自分がいなければ敵もいない。”
(註5)

型、個性、自由、これらは本来区別のないものなのだろう。型は、個の自由な動きや考えから必然的にできるものである。個性は、型から自由を得、そしてまた、自由から型を拵える。自由は、普遍性と永遠を求め、型を作りまた超え、個性を伸ばし、また超えて行く。

註記
1.江守賢治「筆順・字体字典」三省堂(1983)から
2.柳宗悦は、民藝運動を起こした思想家。無名の職人が作る民衆の日常品の美を説いた。
3.以下この段落「キース・ジャレット」立東社(1989)より要約。
4.「ファウスト」森林太郎訳より
5.英語原文
Abbot: ...What is the highest technique you hope to achieve?
Lee: To have no technique.
Abbot: Very good. What are your thoughts when facing an opponent?
Lee: There is no opponent.
Abbot: And why is that?
Lee: Because the word "I" does not exist.
Abbot: So, continue...
Lee: A good fight should be like a small play, but played seriously. A good martial artist does not become tense, but ready. Not thinking, yet not dreaming. Ready for whatever may come. When the opponent expands, I contract. When he contracts, I expand. And when there is an opportunity, I do not hit. It hits all by itself.


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