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マハー パンニャー パーラミター 心

■序

今日は宗教、特に佛教に関連して少し話します。宗教というと、何か胡散臭い匂いがするかも知れませんけれども、わたしが言う宗教とは、「救い」と「心の自由」のあるもの、と云う意味です。

大学時代から佛教に興味はありました。けれども、ほんとうの意味で佛教に出会ったのは、29年ほど前のことでした。熱心に勉強したことも今は大半忘れているようです。昔書いた手記を2つ見つけました。今と多少考えが違っているところもあり、未熟なところもありますが、そのまま掲載します。

■2006年12月10日の手記

(註)全文は長くまたプライベートなところもあるので、ところどころ省略しています。

1.玄奘三蔵法師
西遊記で有名な玄奘三蔵は、中国でもっとも傑出した僧の一人です。インド(天竺)に行った理由は、中国に訳された経典が完全なものではなくいくつかの点で疑問を持っていたためです。彼がインドで学んだのは主に「唯識論ゆいしきろん」についてです。

その頃の唐という国は、インドなどという国にいくことは禁じられていました。そこで、玄奘はこっそり国をぬけだします。途中で高昌国を通りますが、ここで王に歓迎されます。王は玄奘を鄭重にもてなし、自分の国に留まらせインドに行かせること拒みました。そこで玄奘は、断食をして抵抗します。王はとうとう彼の決意に負け、帰りにまた国に寄るように頼み、伴や馬をつけて去ること許します。
[…中略…]

[玄奘はインドに約16年ほどいたようです。]帰りにまた高昌国に寄りますが、既に国は滅んでいました。中国に近づくと唐の王は使いをやり、彼の帰国を歓迎します。

2.過ぎ去る時、子の成長
[省略]

3.情熱
一般に、「それって、宗教だね」とかあるいは「宗教的だね」という時、人は一種の「熱狂」を指しているように思います。しかし、宗教は静かに自分の心を見ることから始まるものですから、熱狂からは程遠いものです。しかし人が生きるためのエネルギーとしての「情熱」は持つべきものと思います。玄奘がインドに行ったのも情熱故ですし、あるいは、子育てや仕事や趣味に情熱を持つことは普通と思います。時として情熱は失せ易いものです。ですからその情熱を長続きさせる努力も大切です。

4.縁起
佛陀が悟ったことは何か。佛教で一番大切な教えは、「縁起」と云う概念です。(諸行)無常、(諸法)無我、空、などと云う言葉の基には縁起があります。
縁起というのは、すべてのものはお互いに影響しあい関係しあっているということです。すべてのものと云うのは具体的に、文字通り物と物との関連であってよいし、物と人、生き物と人、それから人と人との関係もあるでしょう。人について云えば、たとえば人の仕草、言葉、表情、声の調子、のように心と心の関係もあります。物について云えば、動植物の依存関係から環境、山河の風景、デザイン、芸術、などなど、挙げれば限がありません。要するに、物の世界も心の世界も網の目のように、繋がって出来ているということです。

「わたくし」と云うものは存在するのだろうか。佛教では(初歩の教えとして)、存在しないと言います。なぜなら「わたくし」は縁起によって出来上がっているものだからです。無我と云うのは、このことです(無念・無想と云うことではありません)。テレビで細木かずこさんがよく、「自分は生かされているのよ」と云うのもこの意味です。

空とは実体がないということです。なぜなら、物、人、感覚は縁起、つまり他との関係によって出来たものなので、その物自体の実体、わたくしと云う実体、感覚器官という実体(独立して存在するもの)はないのです。実体(があるという事に)に執着すると「我」が出てきます。

瞬間瞬間に互いに影響しあい、留まるものがないからこの世は、無常と云えます。
[…中略…]

肝心なのは、物や人の体だけでなく、心もあらゆるものと関係しあっているという事です。一瞬一瞬心は動いています。と云って、そういう心があると思ってもいけないでしょう。

5.救い
こんな一種理論的なことが解ったところで、人の悩みや苦しみがなくなるわけではありません。

仏陀は、暁の時、菩提樹の下で悟りを啓かれたそうです。そして暫くその悟りを一人で繰り返し味わっていましたが、さてその悟りを人々に説くことに躊躇したそうです。けれども結局、世の中には理解してくれる人もいると考え、教導の旅に出るのです。わたしは、これが非常に大事な事と思います。誰も言っていませんが、これは第二の悟りです。これによって「悟りが完成」したと云ってもよいのではないでしょうか。

この一歩から、現れるべくして現れたのが、大乗佛教です。大乗のキャンペーンと云える標語…四弘誓願しぐぜいがんの第一句にその精神が表れています。

衆生無邊誓願度 (しゅじょうむへん せいがんど)
煩惱無盡誓願斷 (ぼんのうむじん せいがんだん)
法門無量誓願學 (ほうもんむりょう せいがんがく)
佛道無上誓願成 (ぶつどうむじょう せいがんじょう)
すべての人々を救おう。あらゆる苦しみ悩みを断ち切ろう。云々。

菩薩の四弘誓願

さてもう一度、縁起の教えに戻ってみましょう。今度は、「不二ふに」について話します。不二というのは簡単に云うと、一方的な関係がないと云うことです。AがあればBがある。またBがあればAがある。親があれば子はある。しかしその親は子がいるから存在するのです。子を育てる過程に親はいるのです。その子がいなければ、今の親は何処にあるでしょうか。今現在あるのは、お互いが影響しあった結果です。先生は生徒を教える、でも優秀な先生は生徒から教えられます。金儲けが下手な人がいます。それを残念なことと思う人がいます。しかしその子は、そのことを誇りに思うかも知れません。なぜなら、その分(自分がお金を儲けるはずの分)を、人に奉仕したからです。このような関係は、気が付けばいくらでもあります。救いを求めるとき、わたしは、不二という思いが非常に大切と思います。不二は、人を解放するように思います。人の心を広くし、物事を様々な方向から見ることになり、分別のない平等な心を持つことになります。

この前あるギタリストにこんな質問をした人がいました。「ギターを弾くときどんなことに気を付けていますか」彼は答えました、「まず、自分の思う通りギターが弾けること、次に一緒に演奏する仲間とうまくコミュニケーションをとること、それから、聴衆に感動を与えたりその反応を受け取ること」と。しかし彼は続けて、「でも、それから先がまだあるのです。聴衆の向こうにあるもの、そこに何か奉仕するような思いで弾きます」

自分は生かされている、と云うのは、まだ考えの一面です。不二はその裏面を見せてくれます。他によって自分が生かされているのなら、自分は、他に奉仕しながら生きていることになるでしょう。縁起とは、英語のコミュニケーションと考えてもよいでしょう。かのギタリストにとっては、仲間や聴衆との相互のコミュニケーションであり、相互作用なのです。

[…中略…]

キリスト教では、人は罪を背負って生まれてくると云います。生まれたときになぜ罪があるのか、若い頃は理解できませんでした。しかし、「罪」というのは、佛教で云う「苦」のことです。むづかしい言葉で無明むみょうです。罪と苦が同じなどと云う人は誰もいませんが、しかし世界の観方が違うだけで、人の根源的な悩み、悲しみを表現・説明するのに、言葉の上で違うだけだと思います。

宗教は人をゆるすことを語ります。

怨みは怨みによってしずまるのではない。
怨みをわすれて、怨みはしずまるものである。

法句経

しかし、赦したときそこにはもう、赦すものも、赦されるものもありません。救うものも、救われるものもないのです。

個人的な考えかも知れませんが、人と云うものは、根源的な悲しみを持つものではないでしょうか。宗教はそれに対して、安心感というか、自分は、大いなるもの(大悲)によって赦され、救われていると云う安心感を与えます。ここで敢えて「大いなるもの」と云いましたが、今はそれ以外に表現のしようがありません。南無阿弥陀仏と唱えることと同じです。阿弥陀佛は分別の現実界に存在しません。そんな御伽噺のようなことをなぜ信じるのか、と不思議に思う人がいるかもしれません。でも、いわば全人類の思いの中に阿弥陀佛は存在すると言ってよいでしょう。神が現実に存在するかどうかは問題ではないのです。

……
私たちはみな落ちる。
ここにあるこの手も落ちる。
そうして他の人々を見るがいい。
落下はすべてにある。
だがこの落下を限りなくおだやかに
その手に受け止めている一人の人がある。

秋(リルケ)

そして、こう云う思いのなかで、再びわたしたちはこの世界に生きるのです。ただ、生きるのです。

過去を追わざれ、未来を願わざれ。
過去はすでに捨てられ、未来はいまだ至らず。
ただ現在の法をその場その場に観察し
揺らぐなく動ずるなく、よく了知して修習せよ。
誰か明日の死を知らん
かくの如く住して、熱心に昼夜怠らざる者、
これを寂静・牟尼むになる一夜賢者という。

一夜賢者経

若い頃は無我夢中に走ったり、とにかく前に進むしかありません。そして、時には反省するのはよいことです。でも、晩年になれば、童話作家アンデルセンの云うような見方で、一生を振り返ればよいのではないでしょうか。

私の生涯は波瀾に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しい物語[メールヒェン]である。

アンデルセン自伝

先日テレビで「三丁目の夕日」(とか云う)映画を見ました。わたしの生まれた頃の時代設定で、東京の片隅の生活を描いた話です。希望・期待・失望・喜び・悲しみ・思い出、どこにでもある普通の生活です。それが物語になるのです。

[…後略]

■2010年6月27日の手記

人生山あり谷あり、良いときもあり、悪いときもあり。そして、今はどういう時期だろう。「今」とは何だろう。「今」と言うものはあるのだろうか。過去がなければ今は無い、未来がなければ今は無い。だから、今と云う実体があるわけではない…色即是空。しかし、今を離れて過去も未来も無い…空即是色。「今」と言う時期に、良い悪いの色づけをするより、もっと自由にならなければならない…心無罣礙。大事なことは、「今を大切に生きる」ということ。今は、過去につながり、祖先につながり、昔の多くの忘れ去られた人々につながり、その人々の暮らしにつながり、その人々の住む山川草木につながる。今は、未来につながり、子供につながり、多くの未来の子供につながり、その暮らしにつながっていく。そして今この瞬間にも私と世の中は縦横無尽につながっている。私は生き、私は生かされ、私は生かしていく。

とはいえ、現実的に、今がよい時期であるとは思わない。私も一個の人間である。不安あり、落胆あり、孤独あり。それでも一刻一刻大切に生きていく。弱い人間である。だから、その時その時の状況に反応し、対応しつつ、間違いを犯しつつ、そして大切に生きていく。

過去にあった良いこと悪いこと、過去には戻ることができない、過去を”今”思い起こすだけである。良いも悪いもそのときはもうそれが精一杯であったと ”今”は思うし、その事が今の私につながっていると思う。こうしてその「今の私」が良いのか悪いのか、そういう分別・理屈から解放されなけれがならないと思う。「今の私」が今の私だから。それ以外の私はないのです。これから先のことは誰にも分からない、私も変わっていくのか、変えなければならないのか、変わらずにいくのか、ただ只管今を大切に生きるだけです。過去と未来につながる”たった今”を、悲しみながら、希望を持ちながら、苦しみながら、夢見ながら、一日一日大切に生き、生かされ、生かしていく。これが、「今が一番良い時期ときである」という私の云った本意です。

心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖。遠離一切顚倒夢想、究竟涅槃。

■現在

これ以外に、宗教に関する手記を公開しています(参考までに)。

こんな文章を読んで、あなたの悩みや苦しみ、悲しみがすぐなくなることは、ないでしょう。また未熟な考えであるのは仕方がないでしょう。完全・完成を待ってもその時は多分来ません。

賢い人(真摯な人)ほど、人は何のために生きているのだろうと考えるようです。死んだら何もかもなくなる、嫌なことも悲しみも苦しみもなくなる。でも、本当に一体何が無くなるのでしょう。自分でしょうか。自分を含めた世界全体でしょうか。では、なぜ自分は「存在している」のでしょう。存在しているわたしが、存在について考えている……そんな畏怖の念を抱いたことがありました。

わたしにとって、何のために生きるのかと云うより、なぜわたしが存在するのかの方が実感が伴います。

キリスト教文化にある欧米の人々は、神は存在するかという議論をよくします。しかし、聖書に神は「我はありて在る者なり」と言われています。つまり、聖書の神は存在そのものであるので、神が存在するかどうか問うこと自体無意味ではないかと思うのです。(「存在そのもの」がどういう意味なのか深い議論は今はしません、できません。)

では、佛教では存在をどのように観ているのでしょう。個人的な意見ですが、縁起から考えることができると思います。これは現代科学でも同様だと思いますが、ある物が存在するかどうか、どうやったら“わかる”かというと、それに(相互)作用することです。つまり、(相互)関係性が存在であるのでしょう。

いつも机上の論になりますが、昨年思うところがあってnoteにいろいろ書こうとしました。まだ完成していません。いつか“未完成”のまま発表したいと思っているのですが、何時できるか未定です。最後まで長々しい記事を読んでいただきありがとうございました。


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