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宗教について考へるとき

(2013年6月、我が家にて記録)

神は存在するか。欧米人はかう云ふ発想をよくする。

そもそも神とは何か、人間には定義できない。なぜ。キリスト教では神が人間を造られたとされてゐる、それなら、造られた人間が造つた神をどうやつて定義できやうか。しかし、キリスト教では神と宗教は一体だ。だから、定義できなくても神の実在を実感できる信者もゐれば、神の存在・不存在に関はらず、神に信仰をおくことができる。

モーセが聖書の創世記で、人間の罪の起源について書いてゐる。罪といふ概念。生きる苦しみ、生の悩み。死。(無限から無限へ、深淵から深淵へ)

生きることの苦悩。小さい呪ひ、小さい邪心、小さい傲慢、なすべきことが分からないこと、当然のことができないこと、存在に対する疑念、存在の恐怖、知らないこと、気付くこと、後悔すること、繰り返すこと…

何億年と云う地球の生物の歴史の中で、それ(生の苦悩)を人間が認識し始めたこと。もちろんモーセが最初にそれを認識したのではないだらう。けれども、彼の認識は深く、超絶してゐる。生の苦悩は何故あるのか、どこに原因があるのか、そしてその解決・解放は何なのだらう。モーセは、さう考へたに違ひない。

さて罪(生死苦悩)からの解放は、直截に云へば、神への信仰になるのだらう。解放(心の安らぎ)とは、例へばリルケの詩の一節にある

私たちはみな落ちる。ここにあるこの手も落ちる。
(中略)
だがこの落下を限りなくおだやかに
その手に受け止めてる一人のひとがある。
(リルケ 時禱詩集「秋」高安国世訳から) 

「この落下を限りなくおだやかに その手に受け止めてる一人のひと」
これはもう阿彌陀如来そのものである。

イエスは言はれた、人はパンのみにて生くるものにあらず云々と(申命記8-3の引用)。 人は意味で生きてゐる。「お前は意味だけで生きてゐるのか!」と叫ぶものにとつては、意味なしを良しとすることもあるだらう。

けれども、人は心で生きてゐる。神への信仰。此処に意味が生じ、意味が消え去り(覚りと信仰)、新しい世界が開ける(創造)。

(世界的と呼べる)宗教は元来個人を対象にしたものだと思ふ。しかし、個々は互いに繋がり、様々な環境の中に生き、社会を造り出す。だから今私がここに生きてゐるのは、誰かの、何かのお蔭様、と日本人は云ふ。

さういふ私は、謂はば、他者(支持するもの、反対するもの、人、物、言葉、感覚、情景……)の入り乱れ込んだモザイクのやうな組み合はせであり、従つて、そこには自分《“我”と呼べる独立した存在》が“無”い、と佛教は説く。(エゴに執着するなと)

世の中、受け身だけではない。作用があれば必ず反作用がある。畢竟、一切は相互作用だ。であれば、この役立たずの私さえ、誰か様のためになつてゐるといふことになるらしい。

否「らいし」と謙遜しなくてもよいか。その小さな僅かなものが、確実にこの世界を今あるさまに創る。不殺生に理由があるとすれば、ただこの一点である。君は彼によつて生かされてゐると同時に、君が彼を生かしてゐるのだから。

これ(万物万象の相互作用)が、佛教の基本理念、つまり因縁・縁起である。君の笑ひ・憂ひ・言葉・一瞥、雨音、早足、捨て猫のある風景…このやうに世界が動き形作られ創造されてゆく。

縁起により、諸行無常《変化して止まない世界》があり、無我《他者との関係性》があり、縁起の観察から固定観念を捨て、空《捕はれのない自由な心》を実践する。宗教は「如何にあるか」を語る。「神はあるか」を語るのではない。

佛教は、佛[陀]になる教へだと云ふ。しかし佛(悟つた者)になるには、何億劫と云ふ年月がかかると云ふ。かの釈迦牟尼も何回も生まれ変はつて如来になつたとか。ここで少し周りを見回してみよう。

よろづ生きとし生けるもの
山河草木 ふく風 たつ浪の音までも
念仏ならずといふことなし。
(一遍上人語録より)
春の晨(あした)に啼く鳥も
秋の夕べの虫の音も
畢竟梵音海潮音
聞声悟道の法の声
(観音和讃より) 

ふく風、啼く鳥…これらはすべてそのままで、何の不思議もなく誰でも斉(ひと)しく聞くことができる。しかし現実は斉しくない。それは人それぞれ自分の好みによつて選び分け聞き分け見分けてゐるから。世界は誰にとつても平等なのに、人は分別する。

あるがままの姿を見るには、価値・意味・意識の転換が必要だ。あの人の言葉・その行動に気づく、いつもの風景の中にすがすがしさを感じる。娑婆即清淨界、煩悩即菩提。もし神が存在するといふなら、それは心の転換によつて見るのかも知れない。

転換とは、見える対象ではなく、見る人の態度・心に対面すること。

心こそ心まどはす心なれ 心に心ゆるすな (古歌)

そして清淨な心とは

ぬすびとの盗り残しけり窓の月 (良寛)

宗教は教理において理想を見据えるが、現実に対処しなければならない。毒矢の喩へに云ふ。誰が矢を射たかとか、矢の材料は何かとか(形而上のことを)問うより、矢を抜き毒を除き治療するのが先決であると。

現代社会は、大規模にかつ速く動いている。技術工芸の発達、世界的通信網、膨大な情報、個人・組織・国家・民族の形成、歴史・文化の集成。曾てない規模で行はれてゐる一般人を巻き込んだ情報戦争・情報操作。広く情報を操り、知らず知らずの内に操られる。

社会の中の私とは、個人の信念と、愛すべき社会と、善なる社会と、事務処理的に動く社会と、利益・妬み・虚偽の社会との関はり。しかし宗教的立場からすれば、このやうな分別(区別)をすべきでない。人生一寸先は闇。

……一寸先は闇。突き詰めた状況の中でその信念の不確かさ。されば親鸞のやうに吐露するのが正直でよい。それでも人は時に、果敢に戦ひ挑むジャンヌ・ダルクになる。

あるいは、おそれとおののきの内に神を求めるキルケゴールになるか、
菩薩のごとく身を捨てマザー・テレサとして生きてゆくか、
いつもしづかにわらつてゐる宮沢賢治になるか、
陶淵明の如く悠然として南山を見るか…。
多分私たち(あなた)は、「春」に生き、「修羅」に生き、旅は続く。

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