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「出会い」という定義の曖昧さと、その続きに思うこと。

出会いと言っていいのだろうか?
出会いの一種と呼べるのだろうか?
それも良くわからない。

世の中では「推し」と呼ばれるような人なのかもしれない。
2020年、世の中は一変し、「推し」と会えない世界になってしまった。
けどそれと違う理由で「会う」なんて想像すらできない「推し」がいる人達もいるだろう。そこがどんな事情かは人それぞれ。
例えば、年齢の問題や、距離の問題や、国の違いとう問題。
アイドルやミュージシャン、役者などが好きな人は、お金がないと会えない。年齢が若いほど難しくなる。それどころか、お金がいくらかけられても、アイドルの握手会なんてものはなくなった。
「推し」の活動拠点が限られると、そこに行く「距離」の問題が発生する。国が違ったりすると余計そうなる。
「推し活」なんてそもそもお金がないとどうにもならないところがあったりするので、LINEのスタンプなどで「油田はどこなの!!」「なぜ財力には限界があるのか」なんて迷言が生まれたりするのかもしれない。

多くの「推し」(正直を言うと、私が学生の頃、「推す」なんて言葉があったのかが定かではない。「推す」とかいつから言い出したのかすら覚えていすらしない。)がいる私にも、「推し」に会えない世の中が2020年に訪れた。ライブもなければ、舞台もない。遠征なんて言葉は頭の中から消滅した。だが人は考えるものだ。「配信」という文化が盛んになり、パソコンの画面の中で「推し」を観られる、良く考えると、のんびりコーヒーを飲みながらライブや舞台が観られたりする。最初は違和感しかなかったが、人は慣れる生き物だ。そして「配信」には良いことも沢山ある。「アーカイブ」という奇跡のようなシステムだ。要は、現地では一度しか観られないのが当たり前だったライブが、指定された期間に限り何度でも観られる。
悪いことばかりではないことに、話すこともままらなかった「推し」とインターネットを通して話せたりする。
妙な世の中になったな、というのが今思う一番大きなことかもしれない。

ただ、「会った」ことの「ある」推しと「会えなくなる」のと、「会った」ことの「ない」推しと「会うことができない」のとはまた別だ。
その一時。ライブも舞台も、配信システムすらまだ確立されていない時に、私に、心の隙間に入ってきた「推し」というものが生まれてしまった。
元々、ネットで活動する人で、現実世界ではある理由で絶対に会ってはならない人だった。「性別」という問題で会えないという世界の意味が最初は良くわからなかった。ただ、彼は「男」で、私は「女」。それだけでのことが「会ってはならない理由」になってしまう人だった。
「会ってはならない理由」については端折ることにする。
ただ、この人とは永遠に会うことなんてないまま、いつか私たちの前からふらっといなくなるのだろう、くらいに思っていた。実際一時いなくなったのだ。戻ってきた方が謎に満ちている。

それでも希望など捨てられない私は、渡せるあてのないプレゼントを買ったりという、自分でもよくわからないことをした。考えたくもないのでそのプレゼントはクローゼットの奥底に眠ることになるのだが。ただ会ってはならないということが1年以上も続くと、慣れる。人が慣れる生き物というのはとても悲しいと同時に喜ばしい。「会ってはならない」ことに特に疑問も持たなくなって、「本当に同じ世界線で生きてんの?」とか「別のパラレルワールドから通信しているのでない?」とか、ちょっと自分はおかしくなったのかな、ということが平気で頭に浮かぶようになるものだ。そしてそれがおかしいとも思わなくなってくる。
「慣れる」、とは喜ばしい。

ただ、世の中にはバグが起こる。時たま小さなバグが。
2021年も終わりに差し掛かった頃。
「会ってはならない人」が、おかしな理由で「会っていい人」になる。
違和感しか感じないけれど、「会ってもいいチャンスに会いにいかない」なんて選択肢などあるものか。
クローゼットから埃のかぶったプレゼントを引っ張り出す。
「永遠にそこにいるんだと思ってたよ、君。」と起こしたプレゼントにうっかり話しかけたり、もちろん会わない方がこの先もこのままでいいなんてことも頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、を繰り返したけれど。約1ヶ月半、ほぼ私はパニック状態で他の「推し」のライブに行ったりしたけれど、推しアイドルが踊る様子の可愛らしさとかっこよさに酔ったりもしたけれど。
でも当日になったら会いに行かない選択肢なんて全く残っていなかった。

彼は私の顔など知らないけれど、私は彼の姿かたちの想像くらいはつく。
私の知っている彼は、美人で、雑なところが表に出ても実は所作が綺麗で、それでも世の常識外で生きているような人。ただインターネットに全ての人格が映し出されるわけではない為、知らないも同然の状態だった。

だから「出会った」としたら、その瞬間だったのだと思う。今まではきっと出会っていなかった。出会う一歩前が永遠に続くところだった。
普通に話せる自分の心臓に生えている毛の数に感謝するしかない。
今までの「一歩前」の時間をすっかり忘れてしまった。
性格は思った通りで、姿かたちは大人びていた。髪も伸びていた。

多分、「普通」の人と同じことをした。
「課金させろ」とも思ったし、「財布に底などない」とも思った。(この迷言については、うさぎ帝国さんの「推しが尊い」シリーズのスタンプからお借りしています。)課金したければし放題なのでいくら遣ったとか考えもしないまま、支払いはカードできった。

もちろん、これでこのままいなくなるのだろうな、なんて思っていたのだ。「会うことができないが当たり前」という思考はなかなか取り払うのは難しいらしい。しかしその数日後、「次」があることを知った。
正直、違和感しかない。この違和感が何かは言葉にできないが、「会うことができないが当たり前」で私の思考はできあがっていたし、本当に「会える人」になってしまっていいのだろうかなんてことも考える。「会うことができないが当たり前」の方が、心が楽なのではないかとも思う。「会える」に思考を転換するのが頭のかたい私には難しすぎる。

「会うことができない人」にたまたま会えたことにしておけばいいなんてことも考える。そう、ただの小さなバグだと。

「小さなバグ」か「大きな変化」か、どちらを取るべきなのだろう。
1回の出会いで終わらせるべきなのか。
次、のまた次、のまた次があったら怖いなと思ったり。

「出会った」ことには一切の後悔もない。

ただ、ステージの上と下のような関係性でないので、距離が物凄く怖い。

後悔のない「出会い」をこれから一体どうした良いのだろう?

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