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すこやかに考えごとをする

私には、小説/詩を書く用の人格と、それ以外すべての文章を書く用の人格がある。

日記を書くときは、どちらの人格のほうが書けるんだろう。と、最近ずっと考えていた。考えていたらいつのまにか、1年の1/10が終わろうとしている。考えごとが相変わらず下手だ。ひとりで考えては爆発して、ひとりでよく寝込む。
「人生は考え抜くものじゃなくて、生きるもの」だと、江國香織さんが小説で書いていた。今年の目標は、『すこやかに考えごとをし、自分の人生を生きる』です。いま決めました。


もうすこし、考える。


小説や詩を書くときは、それ用の人格でないと書けない。守られた領域、いわば精神世界。そこでしか息ができない自分がいる。深い海の底で、ひとりきりで、世界と向き合わなければ、書けない。私だけの領域。


『作品と作者の人格を、どれくらい絡めて考えるか』。これは、大学の卒論のテーマだった。一度は結論づけたはずの論題なのに、まだ答えが出せずにいる。一生ぶん読んだ『人間失格』は、社会に出てから一度も読んでいない。私は、人間を合格できているだろうか。

つくった作品は、作品として受け取ってほしい。いたずらに、私の要素を反映しないでほしい。作品は作品であって、私ではない。これは間違いなく、思うことのひとつだ。でも同時に、創作は自分の一部だ。どうしても記憶や感情がにじみ出る。その痛々しい部分にこそ、ひかりが宿るとも思っている。

しかしそれは、私とイコールではない。生きている私を濾過して抽出して、必死に生まれた大切な一部だ。紛れもなく私であって、私ではない。

そういえば私は、エッセイを書くことが苦手だ。だれかに生活を見せること、傷を、記憶を、感情を、見せることがこわい。自分の日々に、誰かを登場させてしまうのがひどく申し訳ない。と、こんなことを考えていると不安でどきどきしてしまって、結局全部デリートする。発信できるのは、それをくぐり抜けられた一部。

けれど、続いていく日々の中に忘れがたい一瞬があるのもたしかだ。そしてそれは、かたちにしておかなければすぐに忘れてしまう。だから、今年は紙の日記をつけることにした。私だけが、覚えていられるように。


ほぼ日手帳。枕元に置いている

久々に日記をつけて思った。感情をそのまま言葉にするのは難しい。私は感情を、小説/詩というかたちにすることでしか表現できなかったのだと思った。深層心理とハイタッチだ。

思考に言葉が追いつかなくて、大抵いつも、ぐしゃぐしゃの文字になる。日記を書いているつもりが詩になっていることも、気づけば小説を書き始めていることもある。我に返る。私がやっているのは人生なのに。いやでも、そうやって綴る夜だって、私の人生だ。

ともかく日々は続いていく。文学賞に落ちた翌日、新しい原稿用紙を用意した。珈琲哲学のケーキをひとりで食べた。Amazonの「あとで買う」リストに入っていた本を全部買った。あとでっていつだ、人生はいつか終わってしまうのだから。悩み相談をした。人生は楽しんだほうがいいのだと知った。


やっぱりネットで日記を書こうとすると、純然たるものじゃなくなっちゃうな。それはそれでいいか。フィクションとノンフィクションの狭間に落ちている小さな真理を、拾い集めていきましょうや。今感じていることが、今感じられることのすべてだ。


人生を愛していたい。全部自分で責任を持って、笑ったりかなしんだり、また笑ったりしていたい。2月。今日は晴れ、とけ残った雪の白がまぶしい。


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