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かつて、自分がほしかったことばを


思うに「大人になる」とは、
かつて自分がしてほしかったことを、誰かに返せるようになることではないか。

「自分もつらかったのだから、他の誰かも同じつらさを味わって当然だ」と思ってしまえば、くるしみはどこまでも連鎖してしまう。その連鎖は今日もどこかで起こっていて、誰かが笑いながら耐えている。負の連鎖は、優しさと形容された意思で、断ち切らなければならない。

自分が受けたくるしみを相手に向けるのではなく、優しさに変えて手渡してくれる人のことを、私は心から尊敬している。そういう人が生きていてくれることが、本当に救いだと思う。私もそんな大人で在りたいと思う。

人は、時と場所を越えて救われることがある。

かつてほしかったことばを、今、必要としている人に、届けられる人で在りたい。ずっと、そう思っている。書いて悩んで書いて悩むほどに、そう思う。

起きたことをなかったことにはできなくても、今どう生きるか次第で、過去は変えられる。未来が過去を変えることがある。これは、小説『マチネの終わりに』から得た知見。

私は、ことばに救われたことがたくさんある。ことばが救いになることを知っている。誰でも簡単に文章が書けるようになっても、人を救うのは、人が、心を尽くして書いた文章だと思う。

この前「いい感じの大人になりたいです」と大先輩に伝えたら、「いい感じの大人が周りにいるから大丈夫ですよ」と答えてもらった。私も数年後、あるいは数十年後、今見ている大人たちのような、いい感じの大人になれるだろうか。

「あなたは何のために書いているんですか?」

そう尋ねられたとき、いつでも胸を張って答えられる自分でありたい。コピーでもサブコピーでもステートメントでもサイトコンテンツでも、インタビュー記事でも対談記事でも一人称記事でも。小説でも詩でも短歌でも脚本でも。

大人は、昔思ったよりも悩みながら生きていると知った。でも同時に、悩みながらも、楽しく生きることはできると知った。私たちは、幸せを目指していい。そのために、ペンを握っていたい。

雨降りの日曜日。



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