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いつか、あの頃になる夏で

夏。あまりにも夏。仰いだ空は高純度、木陰が誘う夕涼み。

海。森。光。地面にできる模様。砂の感触。土の感触。視界。私が切り取る世界。夏の匂いから逃れられない。透明な手が背中に触れる。夏。遠い昔の夏休み。塩素とプール、スイカと朝顔。

あの頃はよかった、と人は言う。私も言う。今日も、いつか、あの頃になる。

歩く。砂浜はさらさらしている。歩く。木立はしっとりしている。考える。考える考える考える。ときどき、書く。感じたことを、すべて言葉にはしない。だって。人生にも文章にも、行間がつきものだから。

ひとは、背負う。傷つく。痛みを感じながら歩く。みんな、傷を抱えている。それでも、人生は流れていく。ただいっさいは過ぎていく。なんのために生きる、なんのために書く、私たちはどう生きる。数多の問いに流されて。今日は、答えない。答えは私だけが知っている。私が答える。フラッシュはご遠慮ください、今宵は月明かりだけで。

書く。書く。書く。ことばの意味。人間の意味。ことばが、私たちに与えられた意味。書くことの意味。モンシロチョウが目の前を舞う。追いかけると空高く、遠く遠くへ消えていく。

夏はあの頃よりも、随分暑くなった。ラジオ体操からも自由研究からも解放されたのに、大人は悩む。夏を繰り返す。夏が、毎年生まれ変わっていることに気づいたとき、すこしだけうれしかった。あなたは去年のあなたじゃないんだね、と、夏と秘密を共有したみたいだった。はじめまして。懐かしいね。

あの頃の私が、今の私を見ている。書きかけの読書感想文を大切そうに抱きしめて、物珍しそうに私を見ている。

『最近はどんな本を読んでるの。どこが面白かったの。もっと身長ほしかったね。昨日は何を食べたの。卒業してからも牛乳飲んでね。ね、嵐の最新シングルはどんな曲なの。いま、どんな物語を書いているの』

あの頃の私へ。あのね、私気づいたの、人生は物語ではないみたい。そして、物語も人生ではない。それでも、私たちは物語を求めている。言葉を欲している。ひとは孤独だ。でも、ひとを求めている。名前のない思いなんてやまほどある。かたちにならない思いは、世界中あらゆるところで蠢いている。無名の感情は、いつでも私たちを食い尽くそうとしている。

あなたが見ていた世界より、生きるのがすこし難しいかもしれない。でも私は、私の人生を生きている。これね、すごく難しいんだよ。強がってもくるしかったりするよ。こわいね、こわいよ、ごめんね、でも私は、人生をやっているよ。物語も書いているよ。書き続けているよ。ずっと大切に、書いているよ。

我に帰る。あの頃の私の姿が見えない。ここだよ、と声がする。私のなかから声がする。

夏。あまりにも夏。人生にはタイトルがない。この夏にもまだ名前がない。いつかあの頃になる今日のまんなかで、私は生きている。名前のない夏を抱きしめている。連休がおわる。

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