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幸せと不幸せの不均衡のあいだで


私にその感情が湧き上がってきたのは、幼稚園で帰りのバスを待っていた時だったと思う。

幼稚園生でも遊び部屋の中にはヒエラルキーが存在していて、私は当時から存在意義を持て余していた。おもちゃの廃れた赤や黄色を見つめているしかなかった。

隣の街に住んでいた同級生の少年が「おい、何してんだよ」と声をかけてきたので(今とたいして変わらぬように)「何もしてない」と答えた。彼なりの配慮なのか、近くにいた数人を集めて怪獣ごっこなるものに誘ってくれた。良い奴じゃん。

でも、誘い人のわりに彼は弱かった。くすぐられたり、(痛くない程度に)ポカポカ叩かれたりして、あからさまに彼は弱かった。対抗する彼は至極必死な顔をしていた。

その時、彼の脚元に目が行った。
「となりのトトロ」の靴下を履いていた。

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中トトロも小トトロもいた。成長とともに大きくなる足首に合わせて、トトロの顔もウィ~ンと伸びていた。

「この弱い彼だって、親に愛されている」
そんな言葉が浮かんだ。胸が押さえつけられるほど苦しくなった。可愛いとか微笑ましいでは済まされない、名状しがたい気持ちが喉元まで詰まり、言葉を失ってしまった。


私はこの後の人生でたびたび、この「名状しがたい」気持ちに襲われることになる。


お祭りの中、誰も来ない軒下でヨーヨーを笑顔で売るおじいさんを見た時。

博物館で必死に歴史の説明をしようとするも断られるボランティアを見た時。

結婚生活に疲れた母が泣きながら自身の両親を見送っているのを見た時。


トトロのように柔らかな世界で生きなくてはいけない人間が、たった今この瞬間、受けるべき幸せを得られていない圧倒的な無情さ。  

私が勝手にその人の立ち位置を決めていること自体が、既におこがましく愚かな価値観だと分かってはいるけれど、唯一許されるような言葉を使うなら「幸せになってほしい」という切実な想いである。

人の努力や必死さは、時に非情にも報われない時がある。「日本一位にならなかった」「100点取れなかった」とか、そういう壮大なものではない。
平凡な日常の延長線上にある、平凡な幸せと不幸せの不均衡。そこには、いつも、誰にも知られない花が開いてはしぼんでいる。

そういう日常の隙間をいつも見ていたいと思った。そういうところに落ちている人の幸せを願うことを、ゆるされたいと祈る。

人間はとても愛おしいから。

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