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24歳総集編

ロックスターは死んだ まだ僕は生きてる
母が僕のことを産んだ 幾つのことだっけ
少しずつ追いついていく 少しずつ追い越していく
優しい人でいたいんだ 大人になったんだ

この冒頭から始まるSUPER BEAVERの「27」という曲が私は好きだ。
27歳という年齢で立ち止まって考えさせられる曲なのだろうかと思っていたが、立ち止まって考える機会がどうやらわたしにも訪れていたらしい。
それが今、24歳だ。

私はもうすぐ歳を重ね、25歳になる。20代前半というきらきらフレッシュなブランドを少しずつ脱いでもっとディープな世界に足を踏み入れないといけない。なんていうと大袈裟なと笑われそうだが、私にとって24歳と25歳の境目はコロナ禍のアクリル仕切り板よりもっと分厚いものなのだ。

なぜならわたしは24歳という年齢に対して幼い頃から憧れを抱いていたからである。小学校時代に流行ったプロフィール帳の恋愛の項目にあるお決まりの質問、「何歳で結婚したい?」にはだいたい「24才」と回答していた。24歳になれば絵に書いたような素敵な女性になれると当時の私は思っていたらしい。

あと、数字が可愛い。数字に可愛いという感情を抱くのはあまりないが24には可愛いという印象を抱く。割り切れる数が多いからだろうか。1.2.3.4.6.8.12.24 こんなにも約数のある数字はとても便利で可愛いと思う。割り切りやすいというのは数学の観点でも微笑ましいことだろう。それに比べて25はどうだろう。1.5.25 3つしかない。なんだか堅い…。

兎に角、24歳は色でいうとパステルカラーのような淡くて可愛いイメージでいっぱいの年になるはずだった。そう、「だった」のだ。

24歳の一年は私にとって人間関係の再編が行われた年だった。長く付き合った恋人とも別れた。そのときにとった行動に対する罪悪感を今になっても引きずってしまっている。人をいとも簡単に傷付けてしまったことへの代償は大きかった。
また、連絡を久しぶりに取り合って再び仲を深め始めた人とも些細なことで縁が切れた。そして高校時代から連絡を取らない日がまるで無かった親友と呼べる友だちとも、ある日を境に連絡を取らなくなってしまった。

よく「自分の周りにいる5人の平均=今の自分」と言われるが、その5人に値する人たちが大きくトレードされたように思える。

古い付き合いを大事にすることは大切なことだと思っていたし、長く付き合うこと(恋愛では長続きさせること)は良いことだと思っていた。

しかし、お互いの生きていくベクトルが変化していくときそれは弊害となってしまう。

あのときのわたしは本当にそうしたかったんだろうか、いや、そうしたかったからそうしたのだ。意味を後付けで理論立てて説明しようにもあのときのあの感情とあの行動を今さら否定することはできない。

「コロナの影響で」、なんていう常套句はもう飽き飽きなのだが、コロナの影響で思うように前に進めないわたしはいつになく振り返って考えてしまうのだ。

人間関係の再編の波に揉まれる私を見かねて、「私ではいけないか」と手を差し伸べてくれた人とはこれまたコロナの影響で何ヶ月も会えていない。救いになるはずだったのに、気持ちは漆黒の重い鉛を抱えたまま深海に沈められることが多かった、それが24歳。

つらかった。つらいけど、人をつらい思いにさせたから、自分はつらいなんて言ってはだめだという自己否定ばかりしていた。
それが当然の報いなのだと。

それでも一人で考える時間があるというのは良い面もあった。それは自分が大切にしたいものが見極められたこと。好きな音楽、好きな文学、好きなダンス、日常生活。それぞれジャンルは違うけど、どれも自分が大切にしたいこだわりがあるものである。

好きなこと 好きな人 大切にしたいこだわり
胸を張って口にすることで 未来を照らすんだろうな

この歌詞も先述のSUPER BEAVERの曲で「秘密」の歌詞の一部である。

普段はやり場のない気持ちを歌う曲や上手くいかない恋愛の歌ばかり聴いているが、そんなわたしにも響く前向きソングを歌ってくれるのがSUPER BEAVERなのだ。

25歳はどんな年にしていきたいだろうか。
自己否定を少なくしたいかな。
日付を跨いで、すぐにパチッと切り替わりはしないけど。

時間が解決してくれる もう その通りだと思う
でも正しくは生き続けてる 自分で導いてる

(SUPER BEAVER「27」)

日々を過ごしているのは自分自身で、自分が生活をしていくうちに自ずと時間も経っていくんだろうな。

たくさん悩んだ時間が無駄にはなりませんようにという願いを込めて。

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