ミネラルウォーター
酷く喉が乾いて目が覚めた。
カーテンの隙間から、昨夜激しく降っていた雨は、もう止んでしまってほんのりと薄日が射していた。
ベッドの近くに置いておいたはずのミネラルウォーターに手を伸ばす。
もうすっかりとぬるくなっていたけれど、喉に流し込むと、何故だかそれは異様にひんやりと感じた。
こめかみが締め付けられたようにズキズキと痛い。
背中に張り付いた汗はしっとりと体温を奪いはじめる。
ふいに、愛犬が死んだ日の翌朝と同じ空気の匂いを感じた。
「大切なものが、溶けきって水になった。そして空気になってどこかへ見えなくなってしまった。きっと、そう思いたい。
だからわたしはひとりになった。」
今日の日記には、そう記そうと思った。
昨日、わたしはやっと彼を手放した。
ほんの些細なきっかけでわたしは彼と出会って衝動的に想いを寄せた。
いつも伏し目がちな彼の長い睫毛が頭から離れることは無かった。
彼と出会ってから、日々カタチを変えていく私が鏡に映るたびに、少しずつ一歩ずつ彼に近づいていると確信していた。
ためらいもなくバッサリと切ってしまった髪も、彼が街で、無意識に目で追うようにしていた女性が着ていたようなワンピースも。
彼が愛おしそうにわたしの指を撫でた日のネイル。
そんな姿のわたしが鏡ごしに目の前に現れるたび、わたしは彼の心を両手で掴むことが出来るカタチに変わっていく気がした。
「君といると楽しいよ」彼はいつもそうやって口癖のようにわたしに囁いた。
時々忘れられない何かにとりつかれるように眉をひそめていた彼が、最近、よく笑うようになった。
わたしと出会ったばかりの時は、日が当たる場所を怯えるように避けてきたのに、昨日は初めて2人で公園へ出かけた。
ダイヤモンドのように硬い氷を、わたしのもてる限りの体温で、少しずつゆっくりと溶かしてゆく。
彼が楽しそうに笑って、時折寂しそうにわたしの名を呼ぶたびに、固まった氷から、水滴がポタリと落ちる音が聞こえる気がした。
このまま水にしてしまいたい。
氷のカタチの跡形もなくすべて水に変えてしまえたらいいと思った。
昨夜、悪夢でうなされる彼を抱きしめたとき、ぽつりと彼は呟いた。「僕と彼女は水のような関係だった」
彼はずっと忘れられない昔の恋人の面影にとりつかれていた。
それは彼にとって水のように、無くしては生きていけない存在で、そして水のようにどこからともなく湧き出ていつまでもドクドクと心を満たしていくものだった。
いつもなら、わたしはうなされる彼を大丈夫と抱きしめてやがて温かな眠りにつかせることができた。
けれど、昨夜は、わたしがいくら強い力で彼を抱きしめても、温めても、彼の身体はどんどん冷たく凍っていく気がした。
やがて、コツコツと聞こえ続ける時計の音を冷静に数えながら、わたしはゆっくりと彼を離した。
手の中に握りしめたミネラルウォーターのボトルを思いっきり揺さぶる。
ボトルの中のミネラルウォーターはチャプチャプと音を立てて小さな気泡を浮かべながら、それでも清らかに、透明に透き通ったまま静かにただ揺らいでいた。
綺麗だと思った。どれだけ揺さぶってもなお、それは凛としてその透明を変えない。
あぁ、彼のようだと思った。
いくら私が全身で愛を傾けて彼の心を揺さぶろうとも、彼の記憶にこびりつくその関係は、いつまでもカタチを変えないまま。
彼は昔の恋愛に幻想を抱いたまま、一人だけその過去に足を止め続けていた。
わたしは、ペットボトルのミネラルウォーターを一気に飲み干すと、その空のボトルを勢いよくゴミ箱に投げ捨てた。
わたしは多分、人生で初めて、ミネラルウォーターに少しばかりの憎しみを抱いた。
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