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いかに日本ビール史はドイツビールに彩られたか

日本ビール史、ドイツに染まる
日本の愛飲家の皆さんにとっても、ドイツビールと言えば、そのブランド力や高い品質を認知されておられる方も多いことでしょう。
中には日比谷公園や横浜赤煉瓦広場のオクトーバーフェストに行かれた方も多いことだと思います。
ドイツ、特にミュンヘンを抱えるバイエルン州などは、ビールにおける一種のメッカの様になっていると感じられます。この地はビール純粋令(ビールには水、大麦、ホップ、酵母のみを使用する様にと定めた、品質保護令)制定の地でもあり、ビールを味わう、学ぶには絶対に外すことができません。

キリンビールが発行する書籍には「ピルスナーをいかに改良するかに、日本ビール史の流れがある」という趣旨の記載をしています。ピルスナーはチェコのピルゼンで誕生したビールですが、その製法は下面発酵であり、ドイツが世界に誇る画期的なビール醸造方法です。日本の大手ビールメーカーが公式に「ドイツビールを模範にしてきた」とするとは、何とドイツビールの影響力の大きいものでしょうか。

大英帝国からドイツへの鞍替え
しかしこうもドイツの影響を感じる日本ビール市場ですが、そもそもはドイツに傾倒していたわけではありません。歴史のある一点までは、日本、そして世界のビールを席巻していたのは、2000年の歴史のある「エール」でした。エールの2000年の歴史に比べれば、1842年に生まれたピルスナーは赤子のようなものであるはずです。特に「赤い三角印」で親しまれているバス社(Bass)のエールは、品質の面でも日本ビール産業界にとっては羨望の的だったのです。

事実、1853年の黒船来航からの開港以来、横浜や神戸、大阪などで次々とブルワリーが誕生しますが、初期の日誌や議事録の内容、また実際に発売されたビールを見ると、必死の思いでイギリスのエールを再現しようとしていたことが分かります。この英国式エールの再現を目指す奮闘は、おおよそ1870年代まで続きます。

しかしここで、僅か数年の空白の後に、日本ビール産業界は一気に英国式エールからドイツ式ビールへの大転換へと舵をとることになります。1880年代に入ると議事録の中身は一気に変わり、ありとあらゆるブルワリーが「ドイツから冷凍機等の最新設備を導入し、ドイツ式ビールの醸造を目指す」ことになるのです。

一体、この空白の数年間に何があったのでしょうか。栄華を極める大英帝国からドイツへの転換は、何の力が働いたのか、この謎を解き明かしてみましょう。

Bass社のロゴマークは、世界初のロゴマークとも言われる。

ドイツ留学組の躍進
歴史を再度見つめ直してみましょう。黒船が来航し、鎖国が終焉して以降、日本が手本にしてきたのは、かの「日の沈まぬ国」大英帝国でした。鉄道から下水道まで、イギリスに影響を受けたものはあらゆる産業で今でも日本の生活を支えています。

しかし19世紀も半ばになると、欧米流の富国強兵を目指す日本政府は、数多くの有能な人材を欧米に派遣します。ここで最も影響力を持ったのが、ドイツ留学組だったのです。岩倉具視の遣欧使節団はもとより、森鴎外、青木周蔵、乃木希典ら日本史に輝く偉人たちがドイツに留学し、ドイツにかぶれて帰ってきます。筆者は特に森鴎外のエピソードは好きです。森鴎外は軍医幹部候補としてドイツの医学を学びに渡独しますが、彼が記した「独逸日記」を読むと、ほぼ毎日のようにパブに行き、名も知らぬ人たちとビールを飲みまくった旨の記載がされています。遂にはドイツでアルコールによる利尿作用に関する論文を書き上げてしまう程です(ここで大絶賛を受ける当たり、偉人の片鱗を感じずにはいられません)。

このように数多くの偉人がドイツに学び、日本に戻ってドイツ式の技術や哲学を注入します。それでは、一体なぜ、ドイツが、そしてドイツビールがこれだけ受け入れられたのでしょうか。過去の偉人の努力の裏に、どの様な力が働いていたのか、三つの仮説を立ててみました。

森鴎外は医学を学びにドイツへ渡るが、ドイツビールを大変気に入った。

仮説1 〜エールは飲みづらい〜
ビール、中でもクラフトビールを飲まれる方であれば、最初に飲んだエールの味を覚えているのではないでしょうか。ほとんどの方にとって、それは飲みづらい記憶であったはずです。エステル香などの香りや源麦汁濃度、残エキス分にアルコール度数などが総じて強いため、冷淡で爽快な、広く普及したラガービールと異なりぐっとくる重厚感があり一定の飲みにくさを感じさせるのです。

実際に明治時代の人たちもそう感じていたようで、エールを「イギリスビールの急激なる」と表現する通り、極めて飲みづらいものと認識されていました。強い言葉を使ってこき下ろすメディアもあった程です。エールしか無い時は感じないのでしょうが、ひとたび爽快で喉越しすっきりとしたビールが登場したことで人々は気付いたのでしょう、ドイツビールこそ、我々が欲していたものだ、と。

これにはビールの持つ色味も関連していると考えられます。エールをガラス容器に入れると、濁っていて向こう側が見えません。見た目に重厚感が感じられます。しかしドイツ式ビールの代表であるラガービールを見てみると、輝く黄金色が見た目に爽やかで、グラスに入れると向こう側が透けて見えます。エールが主として飲まれていた時代は陶器のグラスが主に使われていたこともあり、ビールの色というものに人々は気を使いませんでした。しかしガラス容器が普及すると、これに黄金色のラガービールは良く合いました。人々はこの爽快なラガービールに、目にも惚れてしまったという訳です。

ラガービールは味も見た目も、人々が求めているものに合致した。

仮説2 〜新たな欧州の覇者、ドイツ〜
先ほど記した通り、明治時代1870年から1880年にかけて、日本から「ドイツ詣で」が湧き起こる訳ですが、その時代が正に良かった。ヨーロッパでは1870年〜1871年に普仏戦争という戦争が起こります。これによりヨーロッパでは、宰相ビスマルク率いる新興勢力であるプロイセン(後のドイツ)が、近代国家の代表たるフランスを打ち破るという一大事件が起こります。これによりヨーロッパの覇者は、フランスからドイツへとシフトしていきます。

時代は、日本が1900年以降に関税自主権の回復と治外法権の撤廃を実現するまでにわたる、長い長い不平等条約との闘いに明け暮れている時でした。彼らの目に、大国フランスを打ち破ったプロイセンがどう映ったのか、想像は難しくないでしょう。

普仏戦争のプロイセン勝利により、日本陸軍はフランス式からドイツ式軍制へと転換

仮説3 〜ドイツの気質〜
遣欧使節団の報告書には、ドイツでの素晴らしい生活や視察内容が具に書かれていますが、その内容は楽しい思い出や新しい発見に満ち満ちたものでありました。先に挙げた独逸日記を書いた森鴎外も、身分や出自に関係なく、馬鹿らしい話で大声で笑い合うことができた日々を輝く様な筆致でその素晴らしさを伝えています。

対してイギリスのパブはどうでしょうか。イギリスのパブでは、程度の差こそあれ、大騒ぎや馬鹿騒ぎとは一線を画すものです。静かに飲み、政治や経済について語り合う、一種の社交の場でありました。だからこそ、パブは歴史の大きな出来事が起こる前の会議の場にもなっていたのです。勿論イギリスにも、何の気兼ねもなく騒いで飲めるパブはあったでしょうが、ドイツのそれには敵わなかったはずです。この当時のドイツ人のハツラツとした雰囲気が、当時の日本人留学組の気風にあったのではないかと筆者などは思うのです。

まとめ 〜日本とドイツは、多角的な繋がり〜
ここまでドイツビールが日本のビール産業に与えてきた影響とその由来を検証してきました。しかし元も子もないことですが、結論を一つにビシっと出すことはとても難しいです。

ビールの味わいが日本人の(そして世界の多くの人の)舌に合ったこと、そして普仏戦争を勝利した輝かしいドイツの姿が、不平等条約にあえぐ当時の日本に眩しく映ったという時代背景、最後に、ドイツの野生味あふれる雰囲気が日本人の気質に合ったー。こうした様々な要因が複合的に混じり合った結果が、日本ビール史が一夜にしてイギリスからドイツへと鞍替えする要因になったのではないでしょうか。

そして時代は人によって、そして地域によって、様々な特徴のビールが作られる時代へと突入しています。これからの世界のビール産業を制するのは、一体どういったものになるのでしょうか。引き続き注目したいものです。

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