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【日本全国写真紀行】49 福岡県北九州市八幡西区木屋瀬

取材で訪れた、日本全国津々浦々の心にしみる風景を紹介します。ページの都合上、書籍では使用できなかった写真も掲載。日本の原風景に出会う旅をお楽しみいただけます。


福岡県北九州市八幡西区木屋瀬



木屋瀬宿に泊まり異国で果てた、ある白象の孤独な生涯

木屋瀬宿は、長崎街道の宿場町「筑前六宿ちくぜんむしゅく」の一つで、長崎街道と赤間道との追分の宿として栄えた町である。長崎街道は、江戸幕府唯一の開港場だった長崎と小倉を結ぶ脇街道。世界からの文物や情報を全国に伝える、重要な役割を担った街道だった。
 宿場は約1100メートルの街道で、裏通りの全くない一本道。中間にある本陣付近で道は「く」の字に曲がり、家並みはノコギリの歯状に建てられている。「矢止め」といわれる、敵襲の際にくぼみに隠れたり、不意を突いて攻撃したりするための工夫である。100年前からほとんど変わらない町並みに、江戸時代の佇まいを残す古い町家が今も数多く残っている。特に目立つ豪壮な屋敷などはないが、物静かで落ち着いた雰囲気が、しみじみと懐かしさを感じさせる町だ。
 ところで木屋瀬宿には、ドイツ人医師のシーボルトやケッペル、測量学者の伊能忠敬なども泊まったらしいが、実は人間だけでなく、白象が泊まったという記録も残っている。なぜ象が泊まったのか? ちょっと珍しいエピソードなのでここにご紹介しよう。
 この象を注文したのは八代将軍徳川吉宗である。享保十三(1728)年6月、ベトナムからオスとメスの白い象が唐船に乗って長崎にやってきた。二頭の象は船から波止場へと誘導され、十善寺村の唐人屋敷で飼育されていたが、メスはまもなく死亡。残されたオスは翌年の3月、吉宗のいる江戸へと出発。象の飼育係と通訳を道連れに、3トンの巨大な体と長い鼻を揺らして一歩一歩長崎街道を行進していった。
 木屋瀬宿に泊まったのもこの時だが、何しろ将軍様に献上される象である。何かあっては一大事と、街道沿いの宿場町はどこも大騒ぎだったらしい。道路の障害物は全て取り除き、象の飲み水や食料を準備し、橋を補強するなどの作業が、木屋瀬宿をはじめ象の通る街道沿いの宿場全てで行われたという。象はこの後4月に京都へ到着し、天皇と謁見。5月に江戸でついに吉宗に会う。象の旅は約1200キロ以上、かかった日数は80日。
 この間毎日、象は一日に米八升、餡なしの饅頭50個、橙50個をペロリと平らげた。
 江戸では10年以上浜御殿(現在の浜離宮)で飼われていたが、ある日飼育係が象に殺されるという事件が起き、民間に払い下げとなった。中野に建てられた象舎で堀を巡らした栅の中、足に鎖をつけて飼育した。象は大人気で大勢の見物客を集める見世物となり、1年後には死んでしまった。死亡原因は栄養失調とも伝えられている。
 こうして江戸に一大ブームを巻き起こした白象は、異国で孤独な最期を遂げ、特異なその生涯を閉じた。

※『ふるさと再発見の旅 九州1』産業編集センター/編 より抜粋




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