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【Mlog. 11モンテッソーリ教育ってどんな人が作ったの?】

「モンテッソーリ教育」や「おうちモンテ」などの言葉を、耳にしたり目にしたりする機会増えてきています。まだまだ知らない人の方が多いと思いますが…

「〇〇が受けていた教育!」というような見え方が多いと思い、どんな人がいつ作って、どのような思いで作られたのかについてお話しします。

モンテッソーリ教育を作ったのは、イタリア生まれの「マリア・モンテッソーリ」という方が作りました。

高校はエンジニアになるために工業高校に進みますが、大学で医学部へ入学。この時代、女性が医学部に入ることは普通ではできないことだったんです。入学も、別の学部で入学し、医学部へ転科することでローマ大学の医学部に入学しました。

学生時代、男女差別などが辛く必死で勉強したようで、主席で大学を卒業しました。学生時代から「女性の権利のための国際婦人会議」でイタリア代表としてスピーチをするなど、お医者さんとして有名というよりも、女性解放運動や社会活動化として有名だったようです。

卒業後は、精神科医として働き、そこで障がいを持った子どもたちとの関わり、読み書きを学べるような教具を作り始めました。その子どもたちが知能テストを受けると、健常児よりも良い結果であり、ここから教育者への道が始まりました。

様々なところで障がい児は医学の問題ではなく、教育の問題だと説くスピーチを行い続け、障がい児施設を作りました。

精神科医を辞め、人類学を学ぶためにローマ大学に再入学します。4年後には、文化人類学科の学科長に任命され、社会変革運動に積極的に関わっていたそうです。

聞いたことがある方もいるのかな…という内容にやっと入っていくのですが、1907年に再開発が進んでいるサン・ロレンツォ地区に、政府から共働きをしている親のための子どもを預ける場所を作るように、モンテッソーリに依頼が来て、「子どもの家」が作られます。

元々様々な場所でスピーチをする機会が多く、子どもの家のことについて国際会議などでスピーチをし、世界中の教育者や政府関係者などが視察に来て、自国に持ち帰りだんだんと広がっていきます。

しかし、ファシズムの政治に賛同できないモンテッソーリは、結果的にモンテッソーリ教育がイタリアで禁止されるように…。

そして、スペインやイギリス、インド最終的にはオランダへ逃れました。

みなさんも一度は聞いたことがあるのでは?という人物「マハトマ・ガンジー」とも親交があり、互いに教育のことについて手紙交換もしていたようです。

第2次世界大戦に巻き込まれ、現在のチェンナイに抑留されたり息子が強制収容所に入れられたりなどの経験もしながら、モンテッソーリ教育を研究し続けていました。

マリア・モンテッソーリが生きた時代(1870-1952)は、2つの大きな大戦の中で、初めは女性への社会進出などを説いていましたが、同時に「子どもの教育」や「世界平和」について説いていました。

モンテッソーリさんが、『戦争を止めるのは政治の仕事。平和を作るのは教育の仕事。」という言葉を残しています。初めは、子どもの学力や成長の伸びに成果を出し、子どもの力を引き出す教育でしたが、なんのために教育があるのかを、モンテッソーリさんの経験から伝えたい思いが、形作られていった教育だと思っています。

まだまだ伝えきれない、モンテッソーリさんのことがたくさんあります。「マリア・モンテッソーリ」と検索しても、出てこないものも多くあります。

例えば、ジャングルジムを作った最初の人!や、ムッソリーニが文部大臣にモンテッソーリを指名していた!など 笑

あくまで今まで書いたことは、マリア・モンテッソーリの一部の生涯で、私の言葉で書いたものです。

今回は、モンテッソーリ教育はどんな人が作ったのか?について簡単にお話ししました。

少しでも、モンテッソーリ教育やマリア・モンテッソーリさんに興味を持ってもらえたら嬉しいです✨

最後に、マリア・モンテッソーリさんの墓石に記されている言葉を紹介します。

『愛する全能の子どもたちよ、人間と世界に平和を築くため、私と一緒に力を合わせてください』

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