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76. ねじれのわたし。

家族も兄弟も、みんな少しずつ変わっていく。

1人きりでいるときとは別の、近しい誰かと一緒にいるときのための私がいる。
近しい相手なのだからノーマルな自分にとても近いんだけど、大人だから、相手にちょっとずつ合わせるってことを知ってる。そこにある雰囲気を乱さないための私っていうのが、一応いる。嘘をついてるわけじゃないから、別になんてことはないけど。
でもその近しいはずの相手が知らないうちに変わっていたり、今までとは違うところが見えたりして、その変化に対応しようと自分をちょっとぎゅっと変えると、ノーマルな私からしたらねじれの位置みたいなところにいっちゃうことがあって、なんだか居心地が悪い。
しばらくぶりに身近な人に会うとき、そういうことが起こりうる。子どものうちには感じなかったねじれだ。年月を重ね、近しかったはずの人たちの環境も価値観も少しずつ変化していることを、ひしひしと感じる。

いや、むしろノーマルな私自体が変わっているのかもしれない。その可能性も高い。
まあどちらにせよ、ねじれていることには変わりないので、なんとなくしっくりこない。


1人で東京に向かう新幹線に乗る。
ぐんぐん進む新幹線と一緒に、
いろんな私がどんどん出てきて通り過ぎてく。
家族といる時の私。
友達といる時の私。
仕事をする時の私。
夜寝る前のお布団の中の私。
ご機嫌でディズニーソングを歌う時の私。
昔、友達と美大の文化祭に行った時の私まで。
人間にはできないはずのスピードで動いてるからか、いつもは思い出さないような遠く短い記憶が、ぽんっと急に浮かび上がったりする。正直スピードとは関係ない気もするけど、とにかく1人きりで新幹線に乗る時はいろんなことを考えるものだ。

どんどん流れる風景を横目に、いろんな私が顔を出しては、混ざり、時にねじれたりしながら、1人に戻っていく。そういうことを何度も繰り返して、東京へ近づいていく。


大人になって再会すると、ああ、この人はこういう大人だったんだって、新しい輪郭を知ることがある。今年の正月は家族も兄弟も、メインキャラクターが全員大人になってて、なんだか第2章って感じだった。

その中でときどきねじれを感じて、私もう子どもじゃないんだって思ったりしたけど、それを一緒に笑ってくれる友達がいてよかったな。これからもきっとお互い大人になっていくけど、道に片足だけ落ちてる靴とか見ていっぱい笑おうな。

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