”不要不急”で飯を食っている。ー公演中止の決断ーに慣れてやるもんか。
2021年1月 最近また良く目にするようになったワードがある。「公演中止のお知らせ」だ。SNSを開けば1回以上はこの言葉が入ってくる。
イベント業を生業としている人はこの1年で必ずぶち当たっている公演続行か中断かの選択。新型コロナウイルスが猛威を振るう中で、イベントのような人を集めることでお金が動く業種はかなり苦しい運営を強いられている。
2020年の初めての緊急事態宣言の時はまだよかった。国民全員でちょっとずつ我慢して行きましょうというニュアンスがとても強かった。まさかイベントなんて行うべきではないと思ったし、娯楽は心の底から楽しんでもらえる時に開かれるべきであると基本的には考えている。
時は少し進み、withコロナという考えが少しずつ国民に根付き始めた冬、ウイルスはまた日本を襲った。とても速いスピードで。
年が明けるころ、「ああ、また何らかの規制が始まるな」と肌で察した。その時はすぐにやってきた。2回目の非常事態宣言だ。しかし、この宣言にもうあの頃の強い影響力はない。保証は飲食店のみ、電車も変わらぬ混雑具合。初夏の頃無人と化した銀座には、今日も人が多く行きかっている。
そんな中、私の仕事は無くなった。
無くなったというと被害者感が強いので、表現としては適切でないかもしれない。言い換えよう、「やめましょう」という選択をした。
すんなり決まったわけじゃない。ウイルスに屈した訳でも、エンターテイメントの尊さを謳って盲目に進めてきたわけでもない。「無観客配信なら…」「初日を遅らせたならば…」1日の中でも朝と夜の方針が変わるほど、本当にたくさんの検討を重ねていた。でも、このタイミングでこれ以上企画を進めることが出来なかった。
今、私の関わる仕事で発生している問題点を今のうちにまとめておこうと思う。エンタメ界全般を代表している訳ではない。ただ、ある一人の人間の周りで起こった、ちょっと苦しい現状である
①エンタメとは不要不急である
本当にそうだと思う。不要不急であるからこそ、お客様に非日常をお届けできる訳だし、夢を見せることが出来ていると思う。エンタメの尊さを論じる人が多くいるけれども、尊さの根源も無駄なものだから生まれるのだと思う。だからと言って淘汰されるべきものではないと考えている。不要不急は精神を安定させるし、希望をもたらすことがある。私たちは無駄なものに救われ、心を解し、必要なものに向き合うことが出来ていると思う。そういう力を持つ”ヘンテコ”な存在であるエンタメが私は大好きだ。関わるものとして誇りに思う。
で、問題なのが、私たちエンタメ従事者にとっては「必要なこと」であることだ。仕事だからね。
そんな水物の商売選んだのはお前だろ、泣き言言ってんじゃねーよ、という高尚なお言葉をSNSでよーく拝見する。不安定な職に就いていることは自覚しているからある程度のトラブルは織り込み済みである。そう、お前に言われなくてもな。だが、それと淘汰されても良いかは別物である。だからそういうご意見をクソリプって言うんだよ。
②行政からは、実は規制されていない
何故、我々が苦しい決断に迫られているかというと、「イベント自体は禁止されていないから」だ。現在我が業界に求められている対応は以下の通りである。
・収容率50%以下、または5,000人以下
・イベント自体を20時までに終了するよう「協力依頼」する
※いずれも1/11以前に発売された公演については適用外
※文化庁作成ガイドラインに基づく
一見すると、「イベントは止めなくて良い」という前向きな判断に見えるかもしれない。でもこの方針に私は真綿で首を絞められるような感覚を覚えた。
例えば、貴女が大学生女子の親で、娘が今月大好きなアーティストのライブに行きたいと相談してきたとする。どう回答するだろうか。
「今じゃなくていいでしょ、安心して出歩けるようになったら好きなだけ行きなさい。」多分今はこれが模範解答だろう。私が親ならそうする。
さらに地方に住んでいて遠征が必要な場合は尚更参加は難しいだろう。だって国から県を跨いでの移動は自粛するように呼びかけられているのだから。
「仕事」としてエンタメに関わる私たちには、仕事をしていいという。しかしカスタマーである国民全般に関しては、イベント参加を暗に自粛するよう求めている。もしも無理やり興行を行ったとしても、待ち受ける結果は散々なものだろう。やれば利益が出るものじゃない。お客様あっての商売だ。
イベント終了が20時というのもかなり難しい。スタンバイの時間も加味すると1日1公演が関の山。さらに平日の昼の集客を考えると、公演をする方が赤字になるという判断にも頷ける。
でもこれはあくまで経営判断であり、保証はない。
だってお上は規制をしていないから。ただ自分たちで身を引いただけの負け戦になるのだ。
痛い、苦しい、悔しがれ。慣れたら終わりだ。
去年から数えて、私はイベント中止を3回経験している。
哀しいことに、中止する瞬間というものはどこも似ている。知らず知らずのうちに私は、明日から仕事がなくなる覚悟をしていた。
備えることは大切に思う、可能性を考えるのは必要なことだ。しかし、すべてを受け入れるのはまだ少し違うように思う。
世間に抗えと言っている訳ではない。でも、このままのスピードでウイルスの好きなタイミングで私たちの仕事が消えていくのであればそれは文化の死を迎えることになると思う。少なくとも私は廃業せざるを得ない。それってしょうがないのかな?
配信環境だけ整えれば、コンテンツは守れるのかな?
「中止」という選択は間違っていなかったと、今も強く思う。
でも、「感染者が増えてきたから中止はやむを得ないよね」という判断は、思考を止めているだけだと思う。そろそろそこから脱却しないといけない。
まだ方法は分からない。でも、次のタイミングはまたやってくると思う。
その時にどうしたら生き残れるか。この空白の時間に鍵がある。
中止という正義をぶっ壊したい。
でも、今の私には中止することしかできない。
情けないね。でも、この痛みは絶対に忘れてたまるもんか、慣れてもやらないし世の中の所為にもしてやらない。
この1か月は苦しむべき1か月だ。
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