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母の命日、亡くなって11年が経ちました。後悔という経験から学んだこと、受け継いでいきたい想い

※病状の変化など精神的にデリケートな内容を含みます。苦手な方はお控えください。

先日、母の命日でした。
亡くなって早11年が経ちました。

大学病院へ通うようになり闘病期間は約2年。その前から体調を崩し始めてかかりつけの病院で入院した時期もあったなぁと思い出します。

ちょっと珍しい病気で「虫垂杯細胞カルチノイド」と診断されました。始めは婦人系の病気なのかなと。その手術のために入院をして病理に出したことで判明しました。
腹水もたまって妊婦さんのようになっていたお腹。

この珍しい病気は「癌もどき」と言われて、当時治療法がはっきりとしたものがなく、腫瘍箇所の摘出と抗がん剤治療をしていく方針で治療が始まりました。
たしかその手術のあとに“余命3年”と宣告されました。

当時17だった私には、受け入れがたくて涙が抑えられず、術後の母に会いたいけど悟られないように、病室の近くのトイレの鏡で平常心でいなきゃと目の腫れが引くまで何度も何度も確認をして、いつも通りの表情で会いに行ったのを思い出します。でも勘の鋭い母だからきっとあの時に悟ったかもしれない。父との帰りの車の中はとても重かった。

暫くは余命という言葉が浮かんでは、込み上げてくるものがありました。

─父と協力しなければ
わけあってその頃私は通信制の高校に通いながら、すでに働いていて、そして母と同じ職場と言うこともあり、上司に母の病状の説明をしてフルタイムで入れてもらえるようになりました。
母は勤務歴も長くて、周囲からは慕われる存在。上司からも頼られる、右腕的存在でした。
体格も良かった母。体を動かす職場でもあったので、男性社員にも引けをとらず力仕事も万々こなしていて逞しかった。

そんな母がどんどん痩せ細っていく。
抗がん剤治療が始まってからは、大学病院と提携している別の病院へ抗がん剤のために通院しました。
母は車の免許がないので、ともに公共機関を利用して。あるとき帰りのバスで、私が高校受験で受けた私立を横目にいきなり“ごめんね”と。“ちゃんと学校に通わせてあげれなくてごめんね”と謝られたこと。

体力も落ちてしんどいだろうなという時に、何を言うか、この人は…と思いました。

私は付き添うことしか出来ない。始めは全日制に通っていたものの色々と状況が重なって自分の意思で通信制へ編入したまでで。逆に申し訳ない気持ちと無力さでいっぱいでした。

抗がん剤治療にも慣れてきた頃、といっても身体がしんどいことに変わりはないけど、短時間で仕事に出るようになりました。

─無理しないでといっても無理する人。
母にとって仕事は生きがいでもあり、何より責任感がとても強いので、職場への迷惑と家族への負担減など考えて、早く復帰したかっただろうなと。
でも、身体は正直でやれることも限られてきて、万々動いていた頃の自分と違うことに苛立ちを感じている様子もありました。

私も母も思ってることは口にせず秘めてしまう性格で…。それもいま思えばもっと言葉にして伝えておくべきだったなと後悔してます。

抗がん剤治療を終えて衝撃を受けたことは、全く効果がなかったということ。手術をしたら腹膜播種の状態でした。

腹膜播種とは
手術ではとりきれないほどの小さな腫瘍が散りばめられた状態。

最終的にはストーマの手術を受け、大学病院ではなく在宅看護をするようになりました。
「病室の天井を見ながら死ぬより、家の天井を見てる方がいい」と。
ストーマを付けることで慣れてくれば食事も普通に摂れるようになると聞いていたのに、悪化する一方でした。

フルで仕事に出ているので日中は妹が母を見て、夜から朝にかけては私と父が交替で。睡眠時間は当然減りますが気にならないほど、決して苦ではありませんでした。ただ父は建設業で朝早くから遅くまで家を出ているので無理をしてほしくなくて2人を気にしながらの日々を過ごしていました。

─どんな時でも変わらない無理しすぎるところ
体調が少しでも良い状態のときは、台所に立ったり身の回りのことをしたり。骨のラインがはっきりしてしまうほど弱々しくて細くなった身体を笑いに変えたりなんかして明るく振る舞う姿に、母らしいなぁと。
無理しないでほしいけど、子供ながらにそんな母の光景にどこか嬉しい気持ちもありました。

大学病院のときは、何度も入退院や手術を経て長期入院を繰り返していましたが、在宅看護に変えてからは体調が優れず私たちじゃどうにも出来ないことが起きても、すぐ駆けつけてくれる。家の中に母がいるということに安心感がありました。

闘病を始めて約2年が経過した5月、母は旅立ちました。
4月末仕事中に突然、電話がかかってきてすぐに帰ってきてくださいと。
家と職場は目と鼻の先なのですぐに帰ると「あれ、どうしたの?」と不思議そうな顔をした母。けど、少し間が空くと空ろな表情をして、呼び掛けにも反応したりしなかったり。

翌日には、上司が足を運んでくださりケイトウのフラワーケーキを持ってきてくれました。
呼び掛けに始めは気付けず、上司の方を見てはいるけど空ろとして、暫くして表情が柔らかくなりました。前日まで出せていた声が出せなくなって頷く程度。この時には私の中で覚悟を決めていました。

数日後、起き上がることも抵抗も出来なくて、自然に身を任せながら息を引き取りました。
夜中ではあるけど在宅のお医者さんを呼び、到着するまでの20分。とてもとても長い20分。
到着した車の音を聞いたタイミングで大きく息を吐き、息を引き取りました。

早く来ていれば助かったのかな、とか悪気はないお医者さんを一瞬恨んでしまった私がいました。

でも苦しい日々、時間からやっと解放させてあげれた。複雑な気持ちを抱きながら母の側から離れられなかった。

母の死を受け入れられないまま、駆けつけていた身内の相手をしたり、父は葬儀屋さんへ手配をしたり。
─母を独りにして、物事・時は流れていく

落ち着いた頃には朝方になり、いつもの日課で庭先に出る父がふと気になって見てみると、泣いてる姿に側へ駆け寄りました。初めて見る父の弱々しくて、ごめんねと謝る姿。

私が母の代わりになって、家族を支えなきゃと心から思えた瞬間でした。
そんな父も母を追うかのように、4年後旅立ちました。

母を亡くして11年。社会経験も増え、父を亡くし、結婚して子供が出来て…たくさんの出来事や経験をしました。この経験や知識をもっと早くに身に起きて感じていれば、もう少し長く母と過ごす術を考えれていたかもしれない。
こんな時はこんなことをしてあげれば良かったと、当時の私には何かしてあげるような脳がなさすぎて、そんな後悔は変わらず付きまとうし、知識を得れば得るほど後悔は増えるばかり。父の死においても同様です。

でも両親を亡くしたことで、大人でさえも滅多に経験しないことを経験したり、身体もないし声を聞くことも出来ないけど、形として残してくれたものがあるということに亡くなってもなお親としての役目だったり、愛を感じる瞬間があるのも事実です。

一番は「後悔、先に立たず」。
過去にも今も未来にもいえる言葉だと感じます。後悔を感じながら過ごしてきたからこそ、身内や友人へ「後悔しないように」と伝えることが増えました。“大切な人を失う”そういうことに限らず、今は自分の人生においてもなるべく“後悔しない選択”を心掛けるようになりました。

もうすぐ3人の子を持つ親となります。夫のお義母さんも昨年亡くなり、子供たちにおじいちゃん、おばあちゃんと呼べる人は身近にいません。写真と言葉でしか伝えることは出来ないけど、どんな時も私達のことを想ってくれていた人がいたということを伝えていきたいです。

まだまだ小さな子供たちだけど、
お仏壇に一緒になって手を合わせてくれる姿
お供えを“どうぞ”って優しく置いてあげる姿
しっかり“ありがとう”と伝えながらお供えを頂く姿
好きな花の色を覚えてくれるところなど…
純粋で素直な心を垣間見る場面にすでに人を想う気持ちが継承されているようで嬉しくなります。

私もそんな両親のように子供たちを支えていきたいです。

長話にお付き合い下さりありがとうございました。

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