ホセ・ドソノ『夜のみだらな鳥』鼓直訳
なにかに取り憑かれるということがある。取り憑いているものは現実でも実在でもない。そのように取り憑かれてあることを描こうとすれば、それが誰もが知る現実世界の原則に従うことはない。想像力と言い習わされているものの一端はこうしたオブセッションにあるのだろう。
語り手が取り憑かれているのは絶対的な上下関係とセックス、いや、並列されるというよりも、勃起可能性及び妊娠可能性を通した上下関係なのだと思う。そして、そのような上下関係を形式上維持しながらその意味と内実を入れ替えることを倒錯という。この小説はそうした倒錯に隅々まで満たされている。自らを低めることの逆説は、たとえば次のように表現される。
召使いは、その惨めな境遇のなかで力をたくわえていく。哀れみ、あざけり、けちな施し物、援助、辱しめ。耐えていくそれらのすべてが、結局は力となる。[中略]主人たちが愛戯に耽ったベッドの後始末もした。主人たちの服の繕いをした。子供のときには洟をかんでやった。酔って帰ればベッドに入れ、ゲロや小便の始末をした。[中略]こういう仕事をしているうちに老婆たちは、主人のからだの一部を徐々に奪ってわがものにし、彼らの絶対にやりたがらないことを代わって果たすようになるのだ……多くのものを手中におさめるにつれて彼女たちの貪欲さはつのる。より多くの辱めを受けることを願い、お下がりの古靴下をほしがる。すべてを自分のものにしたいと熱望する。(pp. 65-66)
このような関係性がこの物語においては反復される。語り手と主人の間のそれが、この書物の中心にある。
ウンベルト・ペニャローサまたはムディートと呼ばれる語り手はおおむね2つの異なる時期に起こったふたつづきの出来事を語っている。現在に近い方は、執筆と同時代のチリの地方であろう。私には実感がないが、たぶん今の日本にも、地方の名士といった存在をアクチュアリティを持って知っている人がいると思う。そのような名士、ヘロニモ・デ・アスコイティアの若い頃、というのがもうひとつの時間軸だ。別世界で生きているような、あまりに立場の違う彼のもとに、ウンベルトは不思議な偶然から仕えることになり、やがて彼の影のような存在となる。
でもって、ヘロニモに子どもができないと家系が絶えるということなのだが、ようやく生まれた子供が奇形(ひとまずこの言葉を使う。ある時期に見世物として扱われた"正常"から"逸脱"した身体のいくつかのイメージを総体的に言い表すのに適しているから。)だったので、待望の息子が周囲の人間から侮蔑されたり自分の姿を恥じたりすることがないように、奇形だけを集めた楽園を作ってそこから一切外の世界を知らないよう育てようとする。神話の人物の像まで奇形的にこしらえたその楽園の管理を任されるのが、そこに住まう唯一の"正常"な人間となることになるウンベルトで、ヘロニモの息子の成長にまつわる記録を書物にまとめる職務を与えられる。その後、なんだかよく分からない経緯でその場所を脱したあと、彼は容姿がすっかり変貌し、聾唖の醜男ムディートとしてアスコイティア家の所有する修道院で暮らしている。
もう1つの時間軸というのが、その修道院での話だ。ここでもひとつの妊娠が起こる。この修道院には数多くの老婆たちとのだが、孤児の少女たちが住んでいる。現代の若者である孤児たちは決してつつましく暮らしているわけではない。夜中に抜け出して男と会ったりしている(ここにも、ヘロニモとその妻イネスの時と重ねられるような性交相手の入れ替わりのモチーフがあるのだが)うちの1人イリス・マテルーナがどうやら妊娠したらしいことが分かる。すると老婆たちの何人かがそれを処女懐胎であると(表向き?)信じて、生まれてくる奇跡の子に天国に連れて行ってもらおうと画策する。子供が産まれてくるまでの子育てごっこ代わりに始めは1人の老婆が赤ん坊のように退行し、次にムディートが体がボロボロになるほどに縛り上げられて赤ん坊代わりの人形となる。あくまで奇跡の子を求めるという体裁の一方で、体の全ての穴を塞いでパンパンにした嬰児の妖怪インブンチェを作り出そうとしているのだという隠謀もムディートからほのめかされる。こうした信仰と魔性という両義性もまたこの物語の基調低音であり、それは今述べた2つの時間軸の物語を統括する19世紀の聖女-魔女伝説に遡る。
アスコイティア家の先祖であるイネスと、その乳母の物語。魔女であったとされる乳母と、信仰篤い聖女であったというイネス。しかし確固たる記録や証拠は存在せず、口承される伝説はたちまち分岐し、ゆがめられ、覆い隠され、中心を欠いている。ガルシア=マルケスが特徴的に描き出したような、制度的な歴史記述から遠く離れた物語のありかたがここにもある。人々によって離散的に語られる記憶や憶測や伝聞もそうだし、ウンベルト=ムディートの語りもそう。取り憑かれ、混濁していく意識のなかで、2つの時間軸の物語が互いに流れ込み、矛盾が増え、出来事の時系列は混乱を来し、語っていたはずの彼も最後にはいなくなる。
「夜のみだらな鳥」とは、ヘンリー・ジェイムズの息子に宛てた手紙から取られている。エピグラフをそのまま引こう。
分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。
結局全ては伝え聞きであり語りである。そのような空虚の上にオブセッションが鳴き交わす、これは大作である。
ホセ・ドソノ『夜のみだらな鳥』鼓直訳、水声社(フィクションのエル・ドラード)
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