東海大学野球部にみる連帯責任の是非

これは非常に難しい問題を孕んでいる。
連帯責任をどう捉えるのか、原因の事件はどういったものなのかなどの
要素を多く含んでいるからだ。

今回の件に関していうと、

東海大学の対応は妥当

だと僕は考えている。
まず大麻所持は刑事事件であること、
今回の事件は外部で行われた個人の犯罪ではなく、
寮内で複数人によって行われていて、おそらく他の学生も見ていること、
大学側が学生に聞き取りをちゃんととしていること、
などが僕が考える理由だ。

その他にも強いめの罰則の方が、世間も学生に同情して矛先が大学に向く、
連帯責任を懲罰的に捉えるのか教育的と捉えるのかということもある。

これらを総合してみて今回の事件に関しては大学の連帯責任判断は妥当だろうと僕は思う。

この判断が納得いかないなら大学の野球連盟や、世論が動いてひっくり返すのがいいと僕は思う。それでひっくり返ることにも異論はない。

最初から東海大学が該当学生だけ処分にするといったら、世論は妥当だと判断するだろうか?
某ワイドショーでは時代的に世間は認めると言っていたが、僕はそれには疑問がある。ここは大学としては大きく処分をして世論の批判を大学に集めて大学の野球連盟や世論にひっくり返してもらうのが一番学生に非難が行きにくい方法ではないかと思う。

その某ワイドショーではプロを考えている学生はどうするんだという話も出ていたが、それは転校すればいい。プロに行けそうな選手なら引く手数多だ。活動休止になった大学から学生が動くのはよくあることだ。

今は世論の流れも連帯責任はナンセンスだという流れが大きいように思う。
このまま、次のリーグ戦だけ欠場でその次からは出ていいよとか、当該選手だけ排除したら他の選手はいいよとか、大学の野球連盟が決定を出せば丸く収まると思う。

そもそも連帯責任の発想は軍隊教育が元になっている。
日本の学校教育の基礎は軍隊教育が元になっているからだ。

1人のミスで連隊が全員死ぬなどということがありえる戦争の世界で、
連帯責任という発想は当然であり、誰かのミスを隊の誰かが庇うということもまた当然なのだ。

ある軍隊にいたひとに聞いた話なのだが、
非常にキツイ行軍訓練をしていた。
その時、隊内の一人が倒れた。

その時に自分もキツイ状態なのに、その倒れたひとの荷物も担いで歩いたそうだ。

自分もしんどいがひとのためならもう一つ頑張れるもの

なんだそうだ。

これこそが本来の連帯責任の意義で、自分が思っている以上の力を出せたりする。
大衆の威神力というもので、自分一人では無理なことをみんながいることによって頑張れるというところに意義があると思う。

問題はこれをスポーツないし、教育の現場に持ってくるべきことか?
ということだと思う。

確かに理論上、自分のまだ見ぬポテンシャルを出せる可能性は増えるはずだ。
しかし、あまりにも厳しい教育方法となる。

平和ボケしている日本人にはそれぐらい必要なのか、
むしろ現代日本にそれは必要がないところなのかは意見が分かれるところだろう。

子供のいる親という立場のひとはわかると思う。
自分のためなら頑張れなくても子供のためなら頑張れることがあると思うのだ。

そうでないひともいるだろうが、多くのひとは頑張れると思う。

それを子供の頃から友人のためとかチームメイトのためと頑張ってきて大人になったひとと、自分のためだけに生きてきたひととどちらが人間的に成長するだろうか?

もしかしたら、一時的にお金を稼ぐのは自分のためだけに生きてきたひとかもしれない。しかし、周りの環境や本人の感じる幸せはどちらの方が上なのだろうか?

短い人生なら自分のためだけに生きるのもいいかもしれない。
しかし、人生100年時代と言われる現代においてこの差は大きく出ると僕は考えている。

ただ、ひとのためひとのためで自分の人生を生きることなく死ぬ間際に後悔するひとも多くいることもまた事実なのだ。

結局、生き方も健康もバランスが大事という結論になる。


余談ですが、トップに使ったピッチャーのフォームは僕的には全然ダメです。
指導者は何をやっていたのかというレベルで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?